ディスカバー・ニッケイ

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幼少期

私は1957年10月7日、日本人の母とアメリカ人の父のもと、東京で生まれました。私は日本とフィリピンで育ち、米国国防総省(DOD)の扶養家族学校に通いました。

残念なことに、私が9歳のとき、東京西部にある横田基地に引っ越したとき、父は心臓発作で亡くなり、その後、母は米軍ホテルのフロントデスクで米国政府に勤務し、その後、軍の旅行サービスに就職しました。

それ以来、私は家では日本語だけを話していました。もちろん、母と過ごす私の第一言語は日本語でした。父は母に「日本語を話しなさい。母は学校で英語を学ぶだろうが、日本語を理解できるようにしなさい」と言っていました。それで私は横田で育ち、横田基地の高校を卒業しました。それが私の子供時代でした。


米軍基地内の学校 管理米人学校 日本 日本語 言語 横田基地

日付: 2022年7月14日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ラナ・コバヤシ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

サブリナ・シズエ・マッケナは、1957年10月7日、日本人の母とアメリカ人の父のもと、東京で生まれました。日本人のハーフであるマッケナは、「日本人すぎる」または「白人すぎる」という感覚に悩まされていました。マッケナ判事の人生は、1972年にタイトルIXが可決されたときに劇的な影響を受けました。タイトルIXにより、マッケナはハワイ大学に通い、バスケットボールをプレーするための奨学金を受け取ることができました。大学在学中に、彼女は自分の性的指向を受け入れました。

マッケナさんは、自分の性的指向がキャリアを変えたかもしれないと考えている。法科大学院を卒業して法律事務所で働いた後、マッケナさんは法学教授になった。公職に立候補する代わりに、彼女は裁判官になった。しかし、マッケナさんの裁判官への道は平坦なものではなかった。2011年にハワイ州最高裁判所判事として現在の地位に任命された。マッケナ判事の物語は、LGBTQコミュニティのメンバーが成功し、有意義な人生を送ることができることを示している。(2022年10月)

*これは、日系アメリカ人弁護士会全米日系人博物館が共催する、日系コミュニティー・インターンシップ(NCI)プログラムのインターンが毎年夏に行う主要プロジェクトのひとつです。

山野愛子ジェーン

アメリカと日本のいいところを受け継ぐ(英語)

日本在住、カリフォルニア生まれのビジネスウーマン。祖母である山野愛子の後を継ぎ、美容界で活躍。(1964年生)

山野愛子ジェーン

日本文化の伝統を保存(英語)

日本在住、カリフォルニア生まれのビジネスウーマン。祖母である山野愛子の後を継ぎ、美容界で活躍。(1964年生)

ウェイン・ヨコヤマ

雑誌社での就職(英語)

南カリフォルニア出身の在日日系人(1948年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

1952年、戦後まもない日本での不自由な生活 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

ルイス・ヤマダ

日系人としての誇り(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ヘンリー・須藤

日本での学校生活

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

ヘンリー・須藤

アイデンティティ

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

天野美代子

天野芳太郎の日本でのビジネス

天野博物館館長 (1929年生)

田岡 功

日本の若者に対して感じること

パラグアイ駐日大使(1943年生)

マサカツ・ハイメ・アシミネ・オオシロ

日本に対するイメージ:期待と現実(スペイン語)

ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)

恩智 敏子 エレナ

日本語を知る重要性を更に認識(スペイン語)

在日日系ペルー人

堀切 エドワード・徹

子どもの頃のアメリカへのイメージ

帰米二世(1929年生)

堀切 エドワード・徹

帝国軍人になりたかった少年時代

帰米二世(1929年生)

マーガレット・ナルミ

野茂の記者会見 (英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー

マーガレット・ナルミ

野茂のアメリカデビュー(英語)

NHKコスモメディアアメリカ プロデューサー