(英語)まず、私のおばの夫、つまりおじは、ショッピング・バッグというスーパーマーケットの有力者でした。社長はおじの友人だったのです。社長は私をアメリカに戻るよう援助してくれて、私はショッピング・バッグで約1か月半働きました。でも英語がわからなかったので、お客さんが私に何かを訪ねる度に奥の部屋に行っていました。何回往復したかわかりません。すぐにうんざりしてしまって、お客さんにも申し訳ないと感じて辞めました。
そんな時、友人がウエストロサンゼルスからやってきました。彼は私に、「どのくらい稼いでるの?」と聞きました。「あんまり」と答えると、「庭師はもっと稼げるから、やりなよ!」と言うんです。だから私はソーテルに行き、庭師のヘルパーを始めました。
それから違う仕事をしました。というのも、緊張と不満が度を超えていたので、庭師は辞めたんです。それからハウスボーイを約1年やりました。英語を身につけようとしましたが、頭がよくないもので、うまくいきませんでした。とはいえお金が必要なので、ソーテルに戻り、トラックドライバーをやってみました。あと小さな個人経営の食料品店で働きました。
私が唯一しなかったのは、食器洗いくらいです。それから最後に、またスーパーに戻り、退職するまで28年間働きました。それがこれまでの人生です。
日付: 2012年1月31日
場所: 米国、カリフォルニア州
Interviewer: ジョン・エサキ、西村 陽子
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター