ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1403/

子どもの教育

僕は自分の…どういうんでしょうねぇ、夢が終戦でパットおろされた。どこにも持っていきようがない怒りと情けなさっていう、こういう思いを子どもにはしてもらいたくない。だから自分の好きな方に進めばいいっていう。だからかっこよくいえば自由にやらせたっていうことでしょうけど、父親としてはひどく無責任だったと思ってますけど。

あの、自分が英語で難儀した分、今度は彼女たちが英語で教育を受けるわけですから、できたら日本語を忘れないでほしい。だから日本語をあれするためにはどうしたらいいのか、もちろん公立学校にいれて、その後日本語学校に連れて行くわけですけど。

僕はあの、さっき言ったように、何もかも無くした両親と幼い妹や弟の学費の面倒とかがありましたから、ともかく僕は金を稼がないと、稼いで日本に送らないといけない責任がありましたから。責任って言ったらおかしいけど、そういうことをしないといけないと思ってるんで、とても日本語学校に連れて行く暇は無いんですよね。一時は、セブンデイズ、三つ仕事を持って働いていましたから。子どもにとってはとても悪い父親だったと思いますけどね。

だから、メリノールスクールが日本語を教えてくれるっていう、そういう情報があったんで子どもをメリノールに入れましたけどね。ところがやっぱり、カソリックスクール、授業料が高いですよね。痛かったですけどね。(笑)


日付: 2012年1月31日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1929年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。1931年、反日運動が盛んになる中、子どもの将来を心配した父が、家族全員で日本へ帰国すること決意。生後18ヶ月にして、日本へ渡る。1952年18歳の時、アメリカへ帰国。以来アメリカで生活を送る。現在はカリフォルニア州ローズミード在住。(2014年6月)

ヘンリー・須藤

日本陸軍に入隊させられる (英語)

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

ヘンリー・須藤

昭和天皇・終戦の詔書への反応 (英語)

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

恩智 敏子 エレナ

ペルー人子弟にとって、日本の学校に通うことの挑戦と試練(スペイン語)

在日日系ペルー人

フランチェスカ・ユカリ・ビラー

両家族への適応(英語)

ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト

ジミー・ムラカミ

日本で英語を教える(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

A. ウォーレス・タシマ

人種差別に遭うアジア系アメリカ人弁護士(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

A. ウォーレス・タシマ

「個人の法律事務所には決して就職できなかった」(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

エーシー・コオロギ

野茂が後続の日本選手に与えた影響(英語)

ロサンゼルス・ドジャース元アジア部門部長

ジーン・玻満子・シュナイダー

パナマで幼稚園に通う

戦争花嫁(1925年生)

キャロウェイ・久松 照美

子どもと日本語

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

ウィリー・イトウ

両親(英語)

第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

アイデンティティの変化

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

ニッケイという言葉について

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本人へ帰化することについて

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。