ディスカバー・ニッケイ

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ホテル経営を始めた父

父が自動車学校に行って卒業して、仕事先として働いたのがハミルトン・H・カットゥン (Hamilton H Cotton) といって、彼は今サンディエゴの途中にサンクレメンテというところがありますね。そのサンクレメンテの町を開いた父といわれている人なんです。彼の屋敷がニクソンが大統領時代にサマーハウスになったものすごい家なんですね。父はすごくラッキーだったんです。

ミスター・カットゥンの所で働いていて。何年いたんでしょうね。10年近くいたと思うんですけど。ある日、ミスター・カットゥンに呼ばれて「お前、いつまで俺に働くんだ」と言うんですね。「もうそろそろ独立したらどうだ」と言われて。でも親父にとってはアメリカでビジネスなんか起こすなんて、もう夢にも考えてなかった事なんですよね。だけどその時ミスター・カットゥンに言われたのは「アメリカというのはビジネスマンの国だ。どんなに小さくてもいいから。日本で言う一国一城の主にならなきゃだめだ」と言われて。

でも日本人がやるビジネスというのはほとんど限られているわけですよ。だから結局、父は友人と相談したりなんかして、ホテルをやるわけですよ。で、その時にミスター・カットゥンが自分のロイヤー(弁護士)だとか、ミセス・ カットゥンのお兄さんというのが、今ここにあるカーソンシティのあの名前が付いている、ドミンゲスヒルのカーソンラーンチっていうものすごい大きなオーナーがいたんですよね。そのミセス・カーソンのドーター(娘)がミセス・カットゥンだったんです。それで、このミセス・カットゥンのお兄さんのミスター・カーソンがバンクのファウンダーのプレジデントだったんですよ。だからミスター・カットゥンがブラザーインロウ(義兄)のエドワード・カーソンに電話して「資金を用意してやってくれ」と。父はミスター・カットゥンとミスター・エドワード・カーソンのおかげでホテルを始めるわけです。


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日付: 2012年1月31日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1929年、カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。1931年、反日運動が盛んになる中、子どもの将来を心配した父が、家族全員で日本へ帰国すること決意。生後18ヶ月にして、日本へ渡る。1952年18歳の時、アメリカへ帰国。以来アメリカで生活を送る。現在はカリフォルニア州ローズミード在住。(2014年6月)

サカエ・シゲカワ

地域によって違った差別の状況 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

阪根 博

日本人としての強いアイデンティティ

天野博物館事務局長(1948年生)

ウィリアム・ホウリ

日本人ではなく日系人(英語)

政治活動家(1927-2010)

スミコ・コザワ

家族経営の花屋で働き、グレタ・ガルボと出会う (英語)

花屋 (1916-2016年)

大友 八郎

娘が日本になじめず、再度アメリカ行きを決意

溶接業を営む新一世(1936年生)

大友 八郎

アメリカで直面した偏見

溶接業を営む新一世(1936年生)

サワコ・アシザワ・ウチムラ

ロサンゼルスへ移住(英語)

フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)

豊島 年昭

2度の3年契約を経てアメリカへ

寿司職人。リトル東京にある「鮨元」のオーナー(1949年生)

豊島 年昭

日系コミュニティの一員に

寿司職人。リトル東京にある「鮨元」のオーナー(1949年生)

高塩 明

初めて来たときのアメリカの印象

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

海外に憧れ調理師免許を取得

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

高塩 明

移住当初の生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

ファン・アルベルト・松本

父がアルゼンチンへ移住した理由

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

笠原 ハルオ

日本が恋しくて泣いた日々

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

笠原 ハルオ

大変だったプランテーションでの仕事

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)