ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1168/

デカセギ者としての移動によっておこる家庭崩壊(スペイン語)

(スペイン語)ほとんどのデカセギ就労者は、職を得ることが最優先課題です。しかし、同じ街に夫婦そろって仕事に就くことはときにそう容易いことではありません。その結果、夫婦も離ればなれになり、別々の町で仕事をすることもあります。そこから、家庭崩壊が始まったりしますが、時には離婚に至ります。ペルーの法律も、ラテンアメリカ諸国のと同様で、離婚については規定がかなり厳しく手続には時間と費用がかかります(注:その後、ペルーでも一定の条件の下では日本の協議離婚に類似した仕組みが制定され、市役所や公証人役場でも離婚できるようになった)。 I*: もっと複雑ですよね。 ええ、かなり複雑ですし日本のように市役所に離婚届出を提出するだけですぐに離婚できるというものではありません。子供がいる場合、ペルー法では子供の親権等をきちんと吟味しなければなりませんし、裁判離婚になります。婚外子である場合、その子の父親は正規の子として登録できないのです。相手の女性がきちんと離婚し、そのことが登記されていないと再婚できませんし、別の男性と新しい夫婦生活も法的にははじめられないのです。 * “I” は、インタビュワー (Alberto Matsumoto)


出稼ぎ 在日日系人 外国人労働者 家族

日付: 2009年3月24日

場所: 日本、東京都

インタビュアー: アルベルト・松本

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ペルーで出生、1980年頃から約10年電子機器等の組立・修理をするELECTRONICA MORUMBI S.R.L.という会社を経営。1990年9月来日、日本のレベルアップを図るとともに当初はボランティアとして大和市の国際化協会に登録。その後、通訳・相談員として活動、同様にAMDA医療情報センターでも従事する。

2001年から㈶産業雇用安定センター神奈川支部で南米日系就労者の通訳・相談員を勤め、2002年から2005年までは同機関のTOKIO NIKKEIS(上野・新宿職安)で勤務。その他、行政書士事務所「双葉事務所」、コミュニティー内の企業、そして現在は、海外日系人協会の委託事業「日系就労者就労準備研修」の通訳員としても従事。

大和市では、地元のFM YAMATOのパーソナリティーも務め、市主催の「多文化共生会議」及び「地域福祉計画策定委員会」の委員でもある。 (2010年7月)

セリア・オオイ

日系ブラジル人イメージに対する日本の影響 (ポルトガル語)

ブラジル日本移民史料館館長

ドリス・モロミサト

日系人のペルー社会への融合 (スペイン語)

詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)

田岡 功

パラグアイからのデカセギ者の現状

パラグアイ駐日大使(1943年生)

スミコ・コザワ

戦前の幼少期の思い出 (英語)

花屋 (1916-2016年)

フレッド・Y・ホシヤマ

8歳で家長になる(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

フレッド・Y・ホシヤマ

母からの助言(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

キャロウェイ・久松 照美

親不孝

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

キャロウェイ・久松 照美

ホームシック

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本に移住して苦労したこと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本語の理解を深めるにつれ、日本社会に受け入れられる

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

デカセギから定住へ

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

リーマンショックを機に日本語のできるグラフィックデザイナー として独立

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

パウロ・イサム・ヒラノ

日本人へ帰化することについて

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。