その2>>2.『ポストン文藝』の創刊と目的ポストンで最初に文学活動を開始したのは「ポストン歌会」で、1942年9月に第1回歌会が開かれたという記録がある。開所当時は印刷物の配布が禁止されていたため、歌会を開いても、そこで詠まれた短歌を印刷して配ることさえ許されなかった。
そこで川柳愛好者の矢形渓山と石川凡才(庄蔵)は川柳を書いた大きい紙を週に1、2回メスホール(食堂)入り口に貼り出した。36ヵ所の食堂に貼って歩くのに2日かかったというから、川柳にかける2人の熱意は大変なものだったといえる。2人は人びとが貼り紙の前に足をとめて作品を読んでほほえんだり、批評したりする姿と遠くから眺めて満足したという。これは文学好きの2人が炎熱の収容所に見出したささやかな楽しみであった。
『ポストン文藝』は第1館府で、前に述べた「ポストン歌会」を母体として発足したポストン文芸協会の雑誌である。英語名は『ポストン・ポエトリー』であるから、短詩形文学誌として創刊されたと思われる。『ポストン文藝』は住民の自治組織である統政部に属し、形式上はWRA社会奉仕局長の監督の下に置かれていた。
文芸協会はポストンだけでなく、他の9ヵ所の収容所およびニューメキシコ州サンタフェ、テキサス州クリスタルシティの2ヵ所の抑留所にもメンバーを持ち、1945年の終刊時の名簿には348名が載っている。このうち108名がポストン以外の…