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一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第28回 終わりなき世界平和の旅

国連事務総長に手紙を書く

「世界連邦」と「地球市民」を訴え世界各地を回る加藤新一は1975年7月、サンフランシスコで開かれた第一回地球市民世界大会へ出席した。その翌年の1月、加藤は当時のワルトハイム国連事務総長にあてて書状をおくった。このあたりも行動家、加藤の真骨頂が表われている。 

書状は、1976年1月20日、広島から出されたものだ。

「PLEASE ASSIST NOT TO WASTE THE PEOPLE'S TAX MONEY-FOR-WORLD PEACE: An Appeal from a Hiroshima A-Bomb Suvivor」(世界平和のために人々の税金を無駄にしないよう力添えください−広島の被爆者からの訴え)というタイトルで、「Dear Mr. Kurt Waldheim, Secretary-General of the U.N.:」(国連事務総長、来ると・ワルトハイム様)と書き出している。

最初に「No one puts new wine into old wineskins」(新しいワインを古いワイン袋に入れる者はいない)と、聖書の言葉を引用している。古い箴言だが、この当時の世界状況にもあてはまると加藤はいう。

人類はいまひとつの家族であるべきなのに、相変わらず国家という枠にとらわれていて、平和運動もまとまりにかけていると危機感を募らせ、ウ・タント前国連事務総長が登録第一号となった地球市民、そして世界連邦の思想を述べ、国連がこうした思想を積極的に広めるための強いリーダーシップをとることを事務総長に求めている。


孫のサンドラ・カトウさんと連絡がとれる 

これまでと同じ一貫した主張を繰り返し訴えている加藤のこの文書の存在を私に教えてくれたのは、新一の孫にあたるサンドラ・カトウさんだった。新一のひとり息子、直(ケネス)の長女にあたるサンドラさんはカリフォルニアに住んでいる。

以前から加藤さんのアメリカでの親族を探していたところ、ディスカバーニッケイの西村陽子さんから、かつて加藤さんの家族と親しくしていた、ロス在住で広島県人会のヨシ・アクタガワさんを紹介され、さらにアクタガワさんの紹介でサンドラさんと連絡がとれた。

2020年末にEメールでやりとりをすることができた。サンドラさんによると、まず、いまも健在な彼女の母親(新一の義理の娘)は、新一についてはほとんど知っていることはないという。また、すでに他界した父親(新一の息子)の直(ケネス)さんは、広島の原爆について精神的にトラウマを抱えていて広島関係についてはほとんど語ることはなったという。しかし、家族の記録は倉庫のなかに残っているという。

また、新一が「国連に抗議したとき」の映像フィルムがいつくかあり、「デジタル化していないが近いうちに実行するつもりだ」とメールに書かれていた。

新一が書いた国連事務総長あての訴えについては、広島で平和活動に尽力したアメリカの宗教家で教育者のメアリー・マクミランが残した「Mary McMillan papers, 1936-1997 and undated, bulk 1952-1991, bulk 1952-1991」というコレクションのなかにあるのを、サンドラさんは見つけたという。アメリカのデューク大学(Duke University)の図書館が所蔵しているものだ。

メアリー・マクミラン(1912〜1991)は「広島市での多年にわたる女子教育、平和教育、社会福祉などに貢献した」ことで、広島市から特別名誉市民の称号を贈られている。彼女と加藤に親交があったのかどうかはわからないが、こうした加藤の行為は彼女の知るところとなっていたのだろう。

国連軍縮特別総会にもっていくパネルを手にした加藤新一(吉田順治さん提供)

国連事務総長に手紙を書いた2年半後の1978年6月、加藤は第1回国連軍縮特別総会に出席するため渡米するが、その直前の5月25日広島市役所を訪れた。1982年2月10付の朝日新聞は前日に亡くなった加藤についての記事を載せたときに、広島市役所を訪れた加藤の写真を掲載している。

加藤が自らつくったらしい大きなパネルには、きのこ雲の写真を背景に亡くなった弟と妹の顔写真がはっきりとみてとれる。「原爆で死んだ弟妹のうらみを込めたパネルを手に」という記事の説明がついているが、このパネルの意味は、正しくは肉親を亡くした者として二度とこうしたことをおこしてはいけないという、「恨みを超えた平和を求める気持」であることはこれまでの加藤の発言からわかる。

こうして加藤はニューヨークで行われた国連軍縮特別総会に「国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民代表団」の一員として参加、その後おこなわれた反核団体の集会などに出席し、核軍縮と世界連邦建設を訴えた。


ヒロシマの心を持ったヒロシマの顔

帰国後も活動は衰えず、1981年12月には、広島で開かれた「パルメ委員会広島セッション」にも出席した。パルメ委員会とは、同年結成された国連の「軍縮と安全保障問題に関する独立委員会」のことで、委員長であるスウェーデンの政治家オロフ・パルメの名前をとってこう呼ばれた。

82年6月に開かれる第2回国連軍縮特別総会にも参加を希望していた。しかし、同年2月9日に脳梗塞で亡くなった。

翌日、加藤の死は新聞で報じられ、加藤の活動をよく知る人の言葉が以下のように紹介された。

広島YMCAの相原和光・総主事は「ポケットマネーで全国を行脚したり、平和公園内の世界連邦の碑づくりに走り回ったり、文字通り平和のための市民運動の先駆者だった。地球市民世界会議ではウ・タント、ノーマン・カズンズ両氏に次いで三人目の名誉市民。核兵器廃絶の運動が国際的に高まっているときだけに、国連へ行かせたかった」と話していた。(朝日新聞)

加藤さんの平和運動の協力者の一人、原田東岷・広島ワールドフレンドシップセンター理事長は「世界連邦主義一筋の人だった。国連軍縮特別総会には死んでも行く、途中で倒れたら本望だとまで話していた。国外に知人が多いくらいで広島の心を持ったヒロシマの顔だったと思う」と話している。(読売新聞)

(敬称一部略)

続く >>        

 

© 2022 Ryusuke Kawai

Activist Hibakusha hiroshima peace movement Shinichi Kato

Sobre esta série

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

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