Escolha o seu idioma de preferência para tirar o máximo proveito das páginas do nosso Jornal:
English 日本語 Español Português

Fizemos muitas melhoras nas seções do nosso Jornal. Por favor, envie-nos a sua opinião ao escrever para editor@DiscoverNikkei.org!

一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~

第27回 日本から世界へ

よく 牛にひかれて善光寺詣り というが、私はこのたび善光寺詣りならぬ世界秘境「ネパール」詣りができた。それも「牛」ならぬ「地球市民」のお蔭であった。

カナダのオッタワ、北欧のブラッセル、そのほか世界連邦世界大会など、お祭りさわぎに終わりがちな大会には興味を持たなかった私が、去る一月中旬から一週間、インドの首都ニューデリーで開いた第十六回世界大会にでかけたのは、実はアーメド印度大統領やガンジー首相が地球市民登録に署名したし、来る七月末にサンフランシスコで開く第一回地球市民世界大会の支持決議を得るためでもあった。

以上は、「広島文化通信」1975年7月15日号のなかの「ネパールの旅 −『地球市民』遍路に想う」と題した加藤新一のエッセイの一部である。加藤は、元国連事務総長のウ・タントが提唱した「地球市民」に共感し、日本で最初に世界連邦主義者世界協会に「地球市民登録」をし、その後熱心に地球市民運動に取り組んだ。

しかし、具体的にどのような行動に出たのかはほとんどわからない。新聞記者であり編集者でもあったが、どちらかと言えば書くより「行動する人」だった加藤が書き残したものが少ないのがその主な理由である。「広島文化通信」のエッセイは、数少ない彼の書き残した文章のひとつである。私がこのエッセイの存在を知ったのは「広島平和記念資料館」の「平和データベース」がきっかけだった。


「図書館」と「継承する会」の協力 

データベースのなかの「雑誌」の項目の中に「生活と文化」(特別増刊号No.11、平和出版者)と「広島通信 1972.12.01 広島通信の会」という二つの出版物に加藤が寄稿しているのがわかった。前者は、「人類みな地球市民」で、後者は「地球時代・平和の新処方箋」というタイトルで、加藤が自著で述べていることとほぼ同様のことが書かれていた。

この二つの出版物のほかの号についても調べてみようと広島市中央図書館を訪れ尋ねたところ、「広島文化通信 第3号」に加藤新一の寄稿があることがわかった。しかし、同図書館には実物はなかった。しばらくして同図書館の広報資料室の方が、「NPO法人 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」のホームページ内の「継承する会所蔵 文学・芸術関連文献目録の公開について」のページに「広島文化通信 第3号(春陽社出版 1975)」が掲載されている、とメールで連絡をくれた。

そこで、問い合わせ先の「継承する会資料庫部会」にメールで尋ねたところ、「継承する会」の事務局の方が、書庫にあるという「広島文化通信」の加藤新一のエッセイをわざわざコピーして送ってくれた。このお二人の親切のおかげで入手することができたのが、「ネパールの旅」である。

広島文化通信は、1973年に広島通信として広島市の春陽社出版で創刊された雑誌だが、どうやら短命に終わったようだ。


ネパール人にも呼びかける

「ネパールの旅」は、わずか2ページで「カトマンズの寺院」「カトマンズからのヒマラヤ遠望」と説明のある写真が2カット添えられている。

このエッセイによれば、加藤は第十六回の世界連邦世界大会に出席するため、日本から香港、バンコク、カルカッタを経てニューデリーへ行った。そこには世界24ヵ国から約400人、日本からは65人が参加し、「世界正義と開発のための積極的共存−世界共同体をめざす」という大きなテーマのもと、さまざまなことが議論された。

加藤は、団体で訪れたニューデリーには一週間ほど滞在し、その後は「見物ぎらいのため」団体から離れて行動したかったようだが、費用が高くつくというので渋々団体の一員として行動したという。その一環でネパールの首都カトマンズを訪れ、ヒマラヤ連峰のご来光を拝むことができたことを、「平和遍路のお蔭かもしれない」と、エッセイで言っている。

カトマンズにも世界連邦支部組織が生まれ、現地では近く日本の皇太子夫妻を迎える(新国王戴冠式で)準備に忙しいなか、加藤らはネパール官民の大歓迎を受けた。

加藤は「地球市民」の重要性をカトマンズでも呼びかけたようだ。しかしネパール人の反応については、「(地球市民のことを言われ)目を白黒させたのも、ナショナリズムにめざめつつあるこの民族としては無理もない」と書いている。時期尚早だったということだろうか。

サンフランシスコへ

ネパールに行く前、加藤は日本各地もまわり「地球市民」の考えをアピールしていたことが、このエッセイの次のくだりから推測できる。

広島から七十二歳の地球セールス・マンがやって来た——と北海道の新聞に書かれて以来、東北・北陸・九州——さらにアメリカ西海岸に「ゼンコウジ・マイリ」したのが、インドのニューデリー、さらに来る七月下旬の第一回地球市民サンフランシスコ世界大会(国連創立三十週年記念)にまで辿りつき、ネパール巡礼も「地球市民にひかれて」であった。

やや時系列がわかりにく文章だが、加藤は1900年生まれなので1972年に「地球市民」を広めようと北海道を訪れて以来、東北・北陸・九州を訪ね、さらにアメリカ西海岸にもわたり、このエッセイの最初にあるように75年1月にはニューデリーからネパールを訪れた。

「ネパールの旅」のエッセイが掲載された広島文化通信は1975年7月号だから、その前にこのエッセイを書き、そして同年7月にサンフランシスコで開かれた第一回地球市民世界大会に参加したと思われる。

1960年から翌年にかけて全米をひとり車でまわり、日系移民一世の足跡を訪ねた行動力は、衰えることなく、70年代は「地球市民」を訴え日本国内から海外を回った加藤の姿が想像できる。

(敬称一部略)

続く >>

 

© 2021 Ryusuke Kawai

activist Issei Nepal planetary citizen Shinichi Kato

Sobre esta série

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

第1回から読む>>