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ブラジル水泳界の英雄・岡本哲夫:日伯交流から生まれた奇跡

第2回 日本移民受難の時代に曙光

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1942年1月、リオで行われた米国主導の汎米外相会議で、アルゼンチンをのぞく南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議、ブラジル政府も同29日に枢軸国と国交断絶を宣言した。

サンパウロ州保安局は「敵性国民」に対する取締令として、「自国語で書かれたものの頒布禁止」「公衆の場での自国語の使用禁止」「保安局発給の通行許可証なしの移動禁止」「保安局に予告なしの転居禁止」などの制限を日本移民に課した。

そんな時代ゆえ、「日本人プール」は竣工こそしたものの書類に不備があり、開場早々に使用禁止を言い渡された。戸崎新蔵と山崎用一は急きょ、サンパウロ市に出向いて州体育局長にお伺いを立てた。

すると《親切に手続きを教えられ、戦争中も一時閉鎖を命じられたが、これもパジリア氏からのやつてよろしいという許可証でパッサ(註=通過)した。「パジリア局長が世界の岡本哲夫を作った」ということにもなる》(『パウリスタ新聞』1952年9月18日付)。「敵性国民」だが例外的な扱いで、岡本は水泳を続け、地元のヤーラ倶楽部にも所属して磨きをかけることができた。

終戦直後、1946年3月から「勝ち負け抗争」が起き、日系社会は未曽有の混乱に陥った。

41年に日本語新聞がなくなってから、短波放送「東京ラジオ」の大本営発表だけを頼りにしていた日本移民にとって、ブラジル一般紙の報道は「米国の謀略」だと戦時中に頭から刷り込まれていた。

それゆえ終戦直後、日本の無条件降伏を信じたくない「勝ち組」と、早々に敗戦を認めた「負け組」に分かれ、日本人同志が20人以上も殺し合う危機に直面した。46年4月から7月をピークに、翌47年初めまで殺傷沙汰が続いた。

46年末から邦字紙が発行されるようになり、事態は収拾に向かったが、この後も10年近く分裂は続いた。そんな抗争の余韻が色濃く残る1948年、まだ16歳だった哲夫はウルグアイで開かれた南米大会に出場した。

「初陣の水泳会や首府の夜」(雪村)

――父専太郎は、そんな句を詠んで喜んだ。

『パウリスタ新聞に見るコロニア30年の歩み』(1977年)16頁にある訪伯水泳団の記事(中列左から橋爪、古橋、浜口)

1950年、哲夫の人生を変える出来事が起きた。戦後日伯交流の先駆けとなった水泳選手団一行が3月4日に来伯したのだ。遊佐正憲監督、村山修一(主将)、「フジマヤのトビ魚」こと古橋広之進、橋爪四郎、浜口喜博ら一行だ。

戦前の30年代の日本で競泳は「お家芸」と呼ばれ、世界一をほしいままにした。例えば32年ロスの男子全6種目中5種目で金メダルを獲得した。その時代の中心選手の一人が、一行の監督・遊佐正憲(五輪金2、銀1)だった。

すでにブラジル代表になっていた岡本は1カ月余り、この日本選手団と共にサンパウロ市、マリリア市、パラナ州ロンドリーナ市など日系人が多く住んでいる都市で開かれた親善大会に参加し、世界最速の泳ぎに大いに感激した。

全員起立の裡に国旗は掲げられ=夜空に高く響く君が代

敗戦国だった日本は1948年開催のロンドン五輪には参加ができなかった。しかし1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪ら6選手は、ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、400メートル自由形、800メートル自由形、1500メートル自由形で「世界新記録」を樹立した。

サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)締結前だったため、日本国内に米ドルがなく、日本水連幹部や在米日系人からの寄付でようやく実現できた大記録だった。当時、現地の新聞が「フジヤマの飛魚」と呼び讃えたことから、日本国民を大いに勇気づけた。

その翌年1950年にブラジルのスポーツ省の招待で南米遠征。これを機に、全ブラジル水泳選手権大会がサンパウロ市パカエンブー・プールで3月22日から4日間開催され、古橋選手は400メートル自由形で南米新記録を樹立するなど偉業を残した。この時、特別な計らいで国交断絶以来8年ぶりに日の丸が公の場所にはためき、辛い戦中を送った日本移民の心を大いに慰め、力づけた。

実際にパカエンブーのプールに大会を見に行った梅崎嘉明さん(93、奈良県)は、「大会の前には、何を大騒ぎしているんだとけっこう冷めた感じの人もいたし、私もそうだった。でも実際に日本人選手が活躍するのを見ているうちに、いつの間にか一緒に大騒ぎして、結局はすごく感激した」と思い出す。

さらに感慨深そうに、「日章旗が掲揚されたとき、すぐ隣に並んでいた岩波菊治さんが涙を流していた」と付け加えた。落ち着いたインテリの印象が強い岩波だが、さすがにこの時ばかりは、感情の高ぶりをこらえ切れなかったようだ。

「あのときは勝ち組も負け組もなく、皆がプールに集まった。ブラジルの水泳大会だから普通なら大半はブラジル人の観客。ところが、その大会だけは日本人が半分を占めた。そんな場で、古橋らはブラジル人選手に十何メートルもの差をつけて勝利を飾った。その姿をみて一緒に溜飲を下げ、日の丸掲揚を見て、みんなで涙を流した。今思えば本当に特別な日でした」としみじみ振り返った。

梅崎さんは当時27歳で、短歌結社・椰子樹の一番の若手だった。先輩諸氏と一緒に見に行き、興奮冷めやらぬ前に同人の家に寄り、「飛魚歌会」を開いた。その作品が『パウリスタ新聞』1950年4月1日付に掲載されている。

梅崎さんの言うとおり、ブラジル短歌界の指導者・岩波菊治は《メーンマストに高くひるがえる日章旗仰げばしばし沸き来る涙》との熱い想いが込められた歌を発表している。

その他、《全員起立の裡に国旗は掲げられ夜空に高く響く君が代》(大原友重)、《スタートに立つ古橋の不動体ロダンの彫刻のごと眼を見張らしむ》(吉本靑夢)などと10首あるうちの大半は祖国や日本選手の勇姿を讃えている。

でも一人だけ岡本を詠んだ、目の付け所が違う歌人がいた。《二百米決勝のゴール迫るときオカモトを呼ぶ声湧き高まれり》(武本由夫)などと生々しく雰囲気を伝える。

『パウリスタ新聞』1950年4月1日の水泳団一行来伯特集にある「飛魚歌会」

梅崎さんは「日本から有名選手が来るなんて、まったくなかった時代。とにかく飛魚、飛魚と大騒ぎで、まだ誰も岡本に注目していなかった。武本さんはコロニア文芸界の第一人者だった人で、僕ら準二世にも目をかけてくれた。若い世代に期待を寄せる人だったから、岡本のことを詠んだのかもしれません」と当時のことを鮮明に記憶している。

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* 本稿は、『ニッケイ新聞』(2016年8月11日12日)からの転載です。

 

© 2016 Masayuki Fukasawa, Nikkey Shimbun

Brazil Hironoshin Furuhashi Japan sao paulo swimming Tetsuo Okamoto

Sobre esta série

このシリーズでは、ブラジル水泳界および日系社会共に初の五輪メダルをもたらした二世・岡本哲夫(1932年生まれ~2007年没)の歴史を振り返る。ブラジルの「ニッケイ新聞」(2016年)からの転載

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