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歌舞伎研究家・翻訳者、米コロラド生まれの日系二世 ~大島明マークさん~

歌舞伎に携わる日系人

11月、いつものようにジャパンファンデーションからイベントの告知をEメールで受け取った。市川猿之助主演で日本では大きな話題となった舞台を映画にした「スーパー歌舞伎IIワンピース」をハリウッドのチャイニーズシアターで上映するという内容だった。そこに解説者として大島明マークという名前があった。調べると、彼はコロラド生まれの日系アメリカ人。歌舞伎の研究家であり、翻訳者、さらに清元節の語り手として歌舞伎の舞台にも立っているとわかった。一体、彼はどういう経緯で歌舞伎の世界に足を踏み入れることになったのか、興味をかき立てられた。取材を申し込むと、イベントの前日、滞在中のロサンゼルスのホテルで快く会ってくれた。

大島明マークさん

大島さんの両親は東京生まれ。1950年代にそれぞれが留学している間、ミネアポリスで出会った。「彼らが渡米したのは、1ドルが360円で持ち出し額にも制限があった時代でした。特別の理由がないと日本からアメリカには簡単には来られなかった頃です。東京大学を卒業した父は、本当はアメリカに留学したくなかったようですが、祖母(父の母親)に勧められ、最初はコロラド州立大学で、次にミネソタ大学で植物の病気について勉強しました。母の実家は、以前は銀座でヨーロッパの絵画や浮世絵を扱う貿易の会社を経営していましたが、関東大震災で全てを無くし、家は一気に困窮。それで母は働いて貯めたお金で、アメリカに留学してきました。彼女はアメリカの南部の大学で勉強してから、ミネソタ大学でホームエコノミクス(家政学)を専攻し、修士号を取得しました」と、両親の渡米の経緯について大島さんはよどみなく語った。

やがて父親がコロラド州立大学で教えることになり、コロラド州フォートコリンズへ引っ越した。そこで明マークさんは1960年に生まれた。5歳下に現在はワシントン大学で教鞭を執る弟のケンさんがいる。


1981年の日本留学が転機に

子どもの頃、大島さんの家庭環境はどのようなものだったのだろうか?日本語は日常的に話されていたのか?日本文化は身近なものだったのか?

「実は家庭内の言語はほとんどが英語でした。父も母もそれぞれが英語を習得してから出会ったからです。それでも父は冗談で、僕のシャツを脱がせる時は『バンザーイ』と言っていました。それからとっくに日本では死語だったのに、映画に行く時は『活動写真に行こう』などとも言っていましたね(笑)」

大島さんが9歳の頃、母親は店を始めた。最初はイーストウエストアートセンターという名称でクラフトを置いていたが、やがて日本のギフトや食料品が商品の中心となり、店の名前をイーストウエストインポーツに改称した。さらに店で日本文化教室を開講するようにもなった。「母の日本語の教え方は独特で、書く時はカタカナをメインに教えていました。つまり、カタカナをマスターすれば、漢字が書けるという考え方でした。また、日本人の大学教授の奥さん同士でお茶の会を開くなど、母は非常に社交的でアクティブでしたね」

お正月になると大学の関係者や留学生を集めてパーティーを開催した。皆が持ち寄りで料理を担当。大島家は主に赤飯やお雑煮を作った。フォートコリンズの日系コミュニティーは、大学関係者以外にも、戦争中に他州からコロラドの収容所に送られ、戦後もそのまま留まった日系人たちもいた。「でも、我々のような新しい世代の日系人と彼らとの間には溝があったように思います」と大島さんは振り返る。

父は大学で教え、母は商店を経営するという大島家に、転機が訪れたのは大島さんが16歳の時だった。父親が突然、クモ膜下出血でこの世を去ったのだ。「最悪のタイミングでした。母が設計して、新しい家を建てていた頃で、まだ家は完成していなくて保険にも加入していませんでした。しかも父は47歳で亡くなったので、まだ若く、ソーシャルセキュリティーやペンションも十分ではありませんでした。新しい家に引っ越してから、やっと父のお葬式を出すことができました」

しかし、母親を中心に一家は困難な時期を乗り越え、大島さんはハーバード大学に進学した。そして3年が終わった後に、母親からほぼ強制的とも言える勢いで日本への留学を勧められた。

「母は日米両方の文化を知っておけば、選ぶことができる、と言っていました」。若くして自らの意志でアメリカに留学した母は、今度は息子に日本へ留学させることで将来の選択肢が広がることを確信していたのだ。大島さんは1981年から82年にかけてハーバードを休学して、東京の国際基督教大学(ICU)に学んだ。「ICUでは大学の友人と一緒にお能、文楽、歌舞伎の公演を見に行くようになりました。その時、歌舞伎座での英語のイヤホンガイドの話を友人が聞きつけ、私がサンプルを作って応募したところ、なんと合格したのです」


伝統芸能、歌舞伎を身近に

1年の留学期間を終えると、大島さんはハーバードに戻った。留学前は将来は弁護士になろうと思っていた。また、大学での卒論は「旧満州の植民政策」と決めていた。ところが帰国後、テーマは「歌舞伎の社会史」に変わった。留学していた1年間で彼の人生の舵は大きく切り替わったのだ。

大学院時代には、ニューヨーク公演でボランティアの通訳を務めたことで坂東玉三郎さんと、また、ハーバードやコロンビア大学で演劇を教えていた二代目尾上九朗右衛門さんとの交流が生まれた。そして、1987年にはジャパンファンデーションのフェローとして早稲田大学に籍を置くことになった。その時期に清元節と出会い、後に名取にまでなった。プロとして初めて上った舞台は、玉三郎さんが演じた「隅田川」だった。そして、大島さんの1年間の予定だった日本滞在は、なんと今年で30年目を迎えることになった。

大島さんが翻訳を担当した「バイリンガルで楽しむ歌舞伎図鑑」(小学館)

大島さんは現在、歌舞伎の研究家として、また清元節の語り手として東京を拠点に活躍しながら、3年前からはNHKの「Kabuki Kool」という番組で翻訳の仕事に携わるようになった。

「今の若い日本人の歌舞伎に対する興味は薄れています。歌舞伎ワンピースだって、異端物とも言える作品です。それでも歌舞伎に興味を持つきっかけになるならいいことだと思うのです。私の仕事は日本の伝統文化である歌舞伎を日本人に身近に感じてもらえるように、また、外国の人にも親しんでもらえるように紹介していくことです。1987年、ジャパンファンデーションのフェローとして日本に留学した時、1年滞在したら、アメリカに帰って習得した日本文化を広めることが条件でした。しかし、私はそのまま日本に残ってしまいました。今回のようにアメリカの方々に歌舞伎を解説することで、やっとこのツケが払えたと思っています」

 

© 2016 Keiko Fukuda

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