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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(6)

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3. 1945年

キャンセルになった対抗試合———

1年中砂嵐は止まず、雪もちらつく早春のマンザナーですが、高校の男子バスケットボールチームは近くの町のビショップ高校との親善試合に備えて熱気にあふれていました。何しろ初めて相手校に出向いて行く試合でしたから、みんなの気合いも相当なものです。西部防衛司令部の外出許可もとり、チームが出発するという2、3時間前に、ビショップ教育委員会は急に試合をキャンセルしてきました。町に日系人がやってくるというので、コミュニティからの反発があるかもしれないという理由で。転住局が残したこの件についての報告書の中に「若者と偏狭な親の世代との考えの違いを浮き彫りにするために」と、添付してあった手紙をご覧下さい。

1945年1月23日
カリフォルニア州マンザナー
マンザナー高校、生徒会 

親愛なる学生のみなさま、

マンザナー高校、ローリン・フォックス校長から事情をご理解いただいたとのお手紙をいただき安堵しました。

マンザナー高校のバスケットボールチームとの試合が急にキャンセルになったと知らされた時、僕たちは教育委員会の決定を覆すべく、全生徒の署名をあつめて嘆願書を提出しました。学校では、デモクラシー及び米国憲法はいかなるアメリカ人にも平等な扱いを保障していることを学んできました。でも、教育委員会の何人かは、私たちの嘆願書を認めようとはしませんでした。

心から、いつかマンザナー高校のチームと試合ができるように祈っています。

                                                     敬具、

ミッキー・ダフィ
ビショップ高校、生徒会会長1


ルーズベルト大統領の死———

「あのな、今度のような事態でいちばん大きな被害を受けるのは、お前のような子供たちなんだ。砂漠の中の収容所のようなところで、人格形成期を過ごさなければならないんだからな。ヨシローや俺にはあまり影響はない。もう人格が出来あがっているからな。だけどお前の場合は、失うものがかなり大きい」と軍隊の基礎訓練を終えて休暇で収容所に戻ってきた兄のゴローが散歩しながら言った言葉を、12歳になったジーンは時々思い出しては考えていました。その頃、「自由のうちに発想され、人間はみな平等に創られりという主張をば実現せんとする新しい国家」のくだりの文章が好きで、リンカーンのゲティスバーグ宣言を暗記したジーンは、両親と移ったポストン収容所で、4月12日、ルーズベルト大統領の死に直面しました。

……追悼式でゲティスバーグ宣言を暗唱するようエヴァンズ先生に頼まれた。ぼくは承知したが、式の時間が近づいてくるにつれ、どうにも気が落ち着かなくなってきた。南北戦争のときにリンカーンが述べたこととルーズベルト大統領の死とは、どう考えてみても関係なかった。ぼくは先生のところに行き、ゲティスバーグ宣言の暗唱はしたくない、それがルーズベルト大統領の追悼式にふさわしいとは思えないのだ、と説明した。先生は反論し、説得しようとしたが、ぼくの決心は変わらなかった。……ぼくたちを収容所に入れた張本人なのである。ぼくは彼の死には悲しみを感じなかったし、何の感慨も湧いては来なかった。2


戦争の終結———盛夏

16歳の誕生日を待ってヘンリーは、一人で収容所を出て、シアトルに戻ってきました。両親が収容所からもどる前に、住む所や諸々の用意をしておこうと思ったのです。ヘンリーは、すでに年をとっている両親が生活を改めて構築する苦労をすこしでも和らげられるよう、お金をためておきたいと、芝を刈る仕事を始めます。ドイツが降伏したときも芝生を刈っていて、その家の人に「ドイツが降伏したよ。ヨーロッパでは戦争が終わったのよ」と知らされ、広島に原子爆弾が落とされた時も、違う家の裏庭の芝を刈っていました。財閥のジョン・ノードストロム家の斜面になっている裏庭の芝を苦労して刈っている時に、いつも親切にしてくださるノードストロム夫人がレモネードの入ったガラスのピッチャーをかかえて、満面の笑みで庭に現れ、「ヘンリー、あなた方の心配はもう終わったのよ」と。ヘンリーは日本降伏をノードストロム夫人から知りました。3

ヘンリーのいたシアトルから南に45マイル[約72キロ]下った所、マクニール島連邦刑務所に徴兵拒否4で服役していた須子正二も、やはり芝刈りをしていました。「1945年8月14日、刑務所長宅で草刈機を押していた。所長宅の窓から短波にのってくる天皇陛下の終戦の詔勅を聞いた。私は草刈機を無性に押して流れる涙をぬぐおうともしなかった」と、伊藤一男に手記を送っています。5

一方、まだツールレイクにいたアヤコは、二、三軒先のバラックで帰米二世の若者たちが隠し持った短波ラジオをかこんで日本降伏のニュースを聞きながら涙を流しているのを、窓の外から見ていました。アヤコの家族は戦後日本に帰る予定でしたが、ここでお父さんはアメリカにとどまるよう大決心をします。「日本は長い間戦争をしていて、みんな大変だ。今は日本に帰る時ではない。今帰っても、家族や親戚に負担をかけるだけだ。アメリカにいて、仕事をして少しでもお金を送ってあげた方がいい」と。6


イタヤ夫妻———

前年の11月から療養生活に入ったビリーのおばあちゃんリヨは、9月の末になっても、いらいらしたり音に過敏になったり頭痛に悩まされ、食欲もなく眠りも浅い状態がつづいていました。医師はノイローゼと診断しています。最後まで残っていた唯一の家族、メアリーとビリーも7月にはクリーブランドで仕事を始めたビルのもとへと旅立ってしまいました。一人減り二人減りの収容所内にあって、ジュンゾーとリヨは、本当に二人だけになり心細い気持ちでした。立ち退きの際に持ってきた小額のお金は随分前になくなっています。最後の望みは、管理を頼んできたカリフォルニアのルーバーブ農場だけでした。7


別れの時———晩秋

3年半前のことです。立ち退きの準備をしていたお母さんの「アヤ、持って行くのに好きなおもちゃを一つ選んで」との言葉で、三つの本棚にきれいに並べられた本やおもちゃがある所に走って行ったアヤコ。アヤコはその時のことをこう書いています。

愛読書だったきれいなイラストのついた『マザーグースの歌』、大きな『グリム童話』の絵本、隣に住んでいたレニーにもらったところどころ青色が薄れて消えかかっている表紙の古い詩歌集。レニーは8歳上だったけど、どちらも一人っ子だったので、姉妹のようにして育ちました。まだ、箱にはいったままの人形、ぬり絵、クレヨン、ゲーム、何時間も夢中で絵を描いていた黒板のイーゼル……そこで目に留まったのが、前の年のクリスマスにレニーにもらったかわいい赤ちゃん人形のパッツィでした。大きな青い瞳、かわいい鼻と口、ほっぺにはえくぼ。ピンクの帽子の中にカールした短いブロンドの髪が隠れています。白い薄手の生地に小さなピンクの水玉模様の、後ろで結ぶようになっているドレスの上には、帽子とお揃いのピンクのコートをはおっています。折り返しの縁にレースの飾りのついた白い靴下と、白いメアリー・ジェーンの靴をはいてお出かけのよそおいは準備万端。パッツィを取り上げて、腕の中で抱いた時、わたしと一緒にキャンプにいくのはこの子だわと思いました。8

パッツィは、ピュアラップ、ミニドカ、ツールレイクと、アヤコの行くところにはどこにでもついて行きました。ここ、ツールレイクで親しくなった友達にユミとサチがいます。ある日、前触れもなくユミとサチの父親がノースダコタ州ビスマークにある司法省管轄の留置所に連れて行かれた時は、ユミの家族は「お父さん、日本で会いましょう」と言いながら悲しい別れをしています。11月、収容所を出てシアトルに戻ることにしたアヤコの家族を、ユミを抱いたお母さんとサチが有刺鉄線の囲いの所まで見送りにきてくれた時のこと———

みんな心の中ではもう二度と会えないと思っていたので、とても寂しい、涙の別れでした。父親を置いて、三人で日本に帰らなくてはならないユミたちをかわいそうに思いました。わたしの後ろで門が閉まる間際に、持っていたパッツィを急いでユミに手渡しました。ユミはゆっくりとパッツィを受け取り、腕に抱き体にすりよせました。わたしが今までに何度も、何度もそうしたように。9


出たくない———晩秋

この3年半で、日系人は不毛の土地を耕し野菜をつくり、殺風景なバラックの周りに花を植え、日本庭園をつくり、手にはいるもので工芸品をつくり、図書館をつくり、猛暑をやわらげるよう簡易冷房装置を工夫し、アイススケートリンクを作り、歌を詠み、「この異常な状況から、可能な限り尋常な状況を絞り出すこと」を達成しました。しかし、4度目の秋を迎えた収容所に残っているのは、いまや一世のお年寄りと子どもたちだけです。3、40年働き詰めに働いたあげく、強制収容で家も仕事もなにもかも失った一世の中には、いまだに排日の気運が残る社会に戻るよりも、最低限でも衣食住の保証されている収容所内にとどまりたいと考える人もいました。

持てるだけの荷物を持ってむりやり強制収容所におしこめられたのが1942年、今度は一人25ドルと片道切符を渡されて、むりやり外の世界に投げ出されたのです。1945年11月末までにツールレイクを除くすべての強制収容所が閉鎖。1946年3月20日、ツールレイク隔離センター閉鎖。

西部沿岸立ち退き令解除が発令され、自由な身になったものの… (マデレイン・スギモト、ナオミ・タガワ氏寄贈。全米日系人博物館所蔵 [92.97.73])

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注釈:

1. Lindquist, Heather C. (Ed.). Children of Manzanar. Independence: Manzanar History Association, 2012

2. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ−−−ある日系ジャーナリストの半生」

3. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

4. 1944年の1月から8月の間に、2千人以上の徴兵年齢の二世が徴兵令を受け取りました。しかし「市民としての権利を回復し、家族を家にかえしてからでないと、徴兵には応じられない」として徴兵拒否をしたハートマウンテンのフェアプレイコミッティーのメンバーや、政府の決めた日系二世の4−C(敵性外国人)のステイタスには、徴兵の義務はないと明記してあるので、「僕は政府の決めたことに従います」、と拒否したミニドカのジム・アクツ、良心的反戦者としての自分の信念をとおしたゴードン・ヒラバヤシ等、358名の若者が、あたえられた環境でいかにふるまうかを、各自考えた末に、勇気を持って徴兵拒否をしています。それらの多くは裁判にかけられ、有罪となり、連邦刑務所に投獄されました。

5. 前掲「アメリカ春秋八十年」

6. Peggy Ayako Nagata Tanemura, interview by Yuri Brockett and Jenny Hones, November 21, 2013 at Seattle, WA.

7. 前掲、Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II.

8. Tanemura, Peggy Ayako Nagata. “Patsy” from Omoide IV: Childhood Memories. Seattle: Nikkei Heritage Association of Washington, 2005.

9. 前掲 “Patsy” from Omoide IV: Childhood Memories

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

baseball camps children resettlement World War II

Sobre esta série

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。