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「米國日系人百年史」を読み直す~パイオニアたちの記録をたどって

第19回 アリゾナ州とコロラド州の日系人

アリゾナ州

「砂漠とカクタスとカウボーイとで表象されたアリゾナの炎熱と闘い抜いて今日の農耕地を築きあげた日本人の開拓者的努力は尊い」という書き出しで「百年史」のなかのアリゾナ州ははじまる。また、「アリゾナの農業にとり日本人は大恩人である」ともいう。

日本人による農業は、1905年にサンフランシスコの日米勧業社によって120人の労働者が精糖会社の農園に入り込んだのが最初である。以来、各地で各種野菜やイチゴなどの栽培が行われた。

州内の日本人農業史の特色としては次のように記している。

「日米開戦直前から岸山嘉十郎がフイニックス南部のサウス・マウンテン傾斜地に春の切り花(スーク、スナップドラゴンなど)の耕作をはじめ、戦後、中村、渡辺、中川らもこれにつづき同地帯一帯に花園業が盛んになったことである」

咲き誇った日系人花園とカクタス(百年史より) 

農業労働より早く、この地に入り込んだ日本人もいる。1980年代の初期に入った大貫八郎である。

「当時のフイニックスは文字通りのカバードワゴン、カウボーイ時代に金鉱熱で入れ込んだものが殆どで、大貫はそれら鉱脈採掘者達に飲料水を運び、金塊と交換して金儲けをし、その資本で白人と共同でフイニックス市にガス会社、電力会社、電車会社等を興す等、彼は又、フイニックス市発展の大恩人でもあった」


一時は激しい排日に遭う

アリゾナ州には日本人会があったようで、関係する史実はこの日本人会の記録にあるといい、「戦前の年代別小史」で1899年から1931年までのことが紹介されている。いくつか紹介すると…。

「一八九九年=福永収三(広島)斎藤温門(岩手)田中孝平(長野)の三人によりフイニックスに洋食店開業」

「一九一八年=瓜の好景気にて成金続出し帰国者多し。坂本倫夫妻自動車にて最初のグランドキャニオンを見物する」

「一九二六年=日本語学園四月に設立」

アリゾナ州の日系人の人口は、1900年に281人だったのが、1910年371人、1920年550人、1930年879人、1940年632人、1950年780人、1960年1501人となっている。

当初は農業と鉄道労働者で、その後は農業発展による増加とみられる。ただ、日本人の農業発展は、一時はかなり激しい反発を受けたようだ。とくに1930年以来の不況で白人の農業者がアリゾナになだれ込み、先に成功している日本人を攻撃したという。その動きは一時はかなり激しかったようだ。

「就中、一九三四年七月下旬より台頭した排日事件は、直接暴行十回、暴行犯跡二十四件、被害者人員六九名という・・・」


日系人ポストン転住所(収容所)へ

太平洋戦争がはじまると、州内の日系人はメヤー・アセンブリー・センターへ収容され、その後、砂漠地帯のポストン転住所に収容された。その1年後にはアリゾナ州から入所した人たちには外出の許可が出された。収容されていた人たちのうち30%は終戦によるキャンプ閉鎖まで残り、70%は帰還のための外出手続きをとったという。

戦後の日系人は、フェニックス、グレンデールを中心にしてメサ、テンピー、ピオリヤ、トルソン、スカッチデール、ツーソンに居住する。

転住所(収容所)にいた人々について、「~帰還して路頭にまよったが、新規蒔直しで再建に苦労をしのんで努力し、今日では戦前に増し、土地、家屋等の購入者が激増してゆるぎない大地盤を築いている」という。

* * * * *

コロラド州

アメリカの南北の中央に位置するコロラド州は、東西でみれば中央よりやや西に位置する。

「百年史」によれば、「首都デンバー市には一八九三年頃既に数名の日本人が居住し、殊に同市は東行者の一時滞留するものが多く、東行の途同市に立寄り一年乃至一年半滞在して旅費を作り、のち再び東行の途につく者も相当にあり、一時は二十数名を数えることもあったと云われる」と、初期の日本人について記している。

その後、徐々に日本人は増え、「一八九七年すでに新田竹細工店なども営まれていた。又、その一年後にはラマリー街(現在のデンバー市日本人街)に大野洋食店、コートハウス附近には井出教吉の竹大工店などもあった」という。


開拓者、外園直一

コロラド州に最初に常駐した日本人は松平忠厚という。彼は、信州上田藩松平忠礼(子爵)の弟で、1872年にヴァージニア州で学業を修めた後ユニオン鉄道会社の技師などとして中西部開拓事業に従事。1886年ごろ、コロラド州ステート・インスペクター・オブ・マインの補佐官として勤務。現地でアメリカ人女性と結婚、一男一女をもうけたが二年後に病死した。

外園直一(百年史より)

また、初期の「開拓者」として、大分県出身の外園直一が紹介されている。1893年11月に20歳で渡米、サンフランシスコからサンディエゴなどを経てデンバーに来た外園は、砂糖大根の耕作請負を大規模に行った。その後、「ソトゾノ・コンストラクション」を起こして、さまざまな労働請負業をはじめ鉄道会社や炭坑会社に日本人労働者を送り込んだ。

この当時、ロッキー山上の国立公園に国道を建設する難工事が進められていて、これを外園が率いる日本人労働者の手で完成させた。

「アメリカ大陸最高所の一角に、日本民族不朽の金字塔を打ち建てたのであった。この難工事中日本人三十四名はダイナマイトの犠牲となって惨死した」と、百年史はいう。

外園は、このほかワイオミング州でダムの水道工事や発電事業も手がけた。その様子は次のようだ。

「さらに彼とその一団はボールダー町の発電池とデンバー市の間八十哩に、鉄の櫓を建てて高圧電流を貫通させ、当時デンバー市三十五万の市民に光明と力を与えたりした」

デンバー市のユニオン停車場にはソトゾノ・コンストラクションの特別倉庫が設けられ馬だけでも400頭繋がれていたという。


排日のため、同胞へ自重を促す

コロラド州での日本人の移住は、1900年~05年ごろまで急増、09年度の調査委によれば、在留日本人は3550人で、そのうち女性と子供が55人。職業別にみると、「鉄道工夫400人、炭坑夫300人、工場夫150人、家内労働者500人、農業家500人」などとなっている。

農業では、1909年には全体で18,500エーカーを耕作していたと推測され、砂糖大根、野菜、キャンタロープ、麦類、牧草類、コーンなどをつくっていた。耕作地のうち、借地や歩合耕作がほとんどだが、500エーカーほどは所有していたという。

こうして日本人移民の活動は活発になっていくが、その一方で1907年ごろからは排日の気運が広まっていき、翌08年にはデンバー市にアジア人排斥会が組織された。排日の理由は日本人が安い賃金で働くなどして白人の労働者が締め出されることだったが、直接の原因は、「サンフランシスコにおける日韓人排斥会の運動であった」という。

これに対して、コロラド州日本人協議会(外園直一会長)は、排日の新聞社や労働団体などを訪れ日本人の真意を伝えたり、警察に保護を求めたりした。このほか、日本人に自重するよう注意書を交付した。

その内容は、「賭博所、女郎街その他よくなき所に行くべからず」「酒に酔いて路を歩き、醜態をあらわすべからず」「白人の仕事をとるが如き職業には就かぬようにすべし」などとなっている。日本人として行動に非情に気を遣っている様子がわかる。

百年史のコロラド州の紹介は、地域別に発展を追っているが、グラナダ・ハーレー地方では、戦時中の「アマチ転住所」(グラナダ収容所)について触れている。

「一九四二年から開設されたアマチ転住所には最盛時約八千名の日本人が入所し、このコロラド、カンサス州境に、農村の大きな「町」が出現したと同じで、時ならぬ賑やかさであった」

慰霊堂と慰霊碑(百年史より)

収容された人の中には、この地方の農園の繁忙期に農家の申し入れを受けて、出所が許されて働きに出ている人もいた。また、亡くなった人もかなりいて、立派な慰霊堂や慰霊碑が建てられた。

時代は少し前後するが、戦争がはじまる前の1941年春には、コロラド、ネブラスカ、ワイオミングの三州の日系人は、「山東三州日本人時局大会」なる会議を開いて、時局への対応を協議した。20数団体から代表者らが集結して、「恐らく山東三州空前絶後の大会だった」という。

戦争が終わりに近づいたときのコロラド州の日系社会は…

「一九四五年一月、沿岸撤退令の解除に伴い、元の古巣に憧れて帰還する者続出して、著しく衰微の色を露出して居るものの、未だ三千数百の人口を保って二個の日刊新聞を有し、仏基両宗の堂々たる寺院を持ち、公共団体数個を保持して依然日本人街の反映を保持している」

コロラド州の日系人の人口は、1900年には48人だったが、1930年には3200人を超え、戦争でいったん減少するが、1960年には6848人になっている。

 (注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)

 

* 次回は「ネブラスカ州とニューメキシコ州の日系人」を紹介します。

 

© 2015 Ryusuke Kawai

arizona Colorado issei nikkei

Sobre esta série

1960年代はじめ、全米を取材して日系社会のルーツである初期の日本人移民の足跡をまとめた大著「米國日系人百年史」(新日米新聞社)が発刊された。いまふたたび本書を読み直し、一世たちがどこから、何のためにアメリカに来て、何をしたのかを振り返る。全31回。

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