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有名ブラジル人法律家の知られざる日系人との絆: イヴェス・ガンドラ・マルチンス

「今でも空手の訓練を毎日続けているよ」。そういいながら有名な法律家イヴェス・ガンドラ・マルチンスさん(79、Ives Gandra da Silva Mrtins)は4月15日、手刀の構えをして「今でも板一枚なら割れる」と言った。日本文化関係にゆかりがある人物としてはまったく知られておらず、驚くような言葉から取材は始まった。

法律事務所でイヴェス・ガンドラ・マルチンスさん

名だたるエリート校のサンパウロ州立総合大学(USP)法学部を卒業後、弁護士としての経歴を重ねながら解放者党(PL)党首も務めるなどの政治活動もし、数々の有名大学教授にも就任し、保守系論客として知られ、新聞のコラム執筆者にもなっている。〝法王の先兵〟の代名詞で知られるオプス・デイ入信をブラジルで最初に公にした筋金入りのカトリック信者でもある。

その傍ら、法律に限らず文学など140冊以上の著書を発表し、サンパウロ州文学アカデミーのメンバー、クラブ世界一にも輝いた有名なサンパウロサッカークラブ(SPFC)の元評議員会長など、多彩な経歴を並べ始めるときりがない。

日本文化との接点を問うと、大学時代の親友が日系人だったからとのこと。名を聞くと渡辺マリオ(故人)、日系社会では「日本移民の母」とも呼ばれる渡辺トミ・マルガリーダ(1900―1996、鹿児島県)の息子だった。

大戦中、枢軸国移民である日本人の集会や公の場での日本語の使用すら禁止された時代に、カトリック教会の名の元に果敢に邦人救済活動を組織した女性リーダーだ。

困難な大戦期、果敢に邦人支援を始めた聖母

1942年1月にリオで開催された米国主導の汎米外相会議において、アルゼンチンを除く南米10カ国は対枢軸国経済断交を決議し、ブラジル政府も国交断絶を宣言した。ナチス・ドイツはその直後、米国の補給路を断つために大西洋上のブラジルや米国艦船を次々に潜水艦攻撃で沈めた。その死者数は2月から8月までで1千人を越えたという。この被害を補償するためにブラジル政府は同年2月、枢軸国側移民や企業の資産凍結令を出し、日本進出企業や移民関連会社は真っ先に標的にされ、なんの罪もない邦人がスパイ容疑で次々に政治警察に拘束された受難の時代だった。

南半球のブラジルは6、7月が真冬だ。トロピカルな印象が強い当地だが、サンパウロ市は800メートルの高原にあり、10度以下になりかなり肌寒い。そんな1942年5月13日、渡辺マルガリーダはセーター80枚を買い、政治警察によって移民収容所に収監されていた邦人に差し入れた。これが「聖市カトリック日本人救済会」の最初の活動だ。在外公館は閉鎖・国外退去を命じられ、外交官は同年7月に引き上げた。

翌1943年7月、サントス沖で起きたドイツ潜水艦攻撃を受け、枢軸国側移民サントス地区強制立ち退き令が出された。24時間以内という無謀な行政命令で、泣く泣く土地や財産をたたき売り、手に持てるだけの荷物をもって列車に乗せられた。なぜか大半は日本移民だった。サンパウロ市に送られた避難民を受け入れたのも渡辺マルガリーダで、1週間の間になんと計6500人を世話したと記録にある。

『救済会の沿革とその事業』1968年、3頁)には「貧困者・疾病者及びその家族の救済、寄辺なき老人の収容・養老院への入院斡旋、孤児・私生子の収容・養育、精神病者の入院斡旋、結核患者の入院斡旋と救済、死者(無縁仏)の埋葬、失業者の就職あっせん並びに人事相談」と書かれており、ありとあらゆる福祉業務を一手に引き受けていた。

1942年から1967年11月末までの25年間に、延べ人数で6万1403人を救済した。活動が拡大する中、正式登録が必要となり、1953年3月、正式に社会福祉法人「救済会」となった。

渡辺マルガリーダ(救済会が創立した老人ホーム「憩いの園」で、記念誌『救済会の37年』の表紙、1979年)



親友マリオとその母、空手との出会い

学生時代、マルチンスさんと渡辺マリオは恋人を連れてカップル二組で週末によく遊びに行った。そんな時、マリオから母親の救済事業のことを聞かされ、「コミュニティの聖母のような人だと思っていた」という。

1965年頃に空手をやっていた頃の写真(雑誌『MASTER』第3号、12頁、Bueno Editora)

大学卒業後、25歳の時に「変わったスポーツをやりたい」と思い、大学の近くにアカデミーがあった空手を習うことにした。当時は普及が始まったばかりだった。

厳かな雰囲気の彼の法律事務所は、銀行や多国籍企業が軒を並べる南米金融界の中心パウリスタ大通りの近くにある。壁には、1965年5月15日、ブラジル空手アカデミーから1段を授与という免状が誇らしげに飾られている。

彼が最初に法律事務所を構えたのは、東洋人街のすぐ横ジョン・メンデス広場だった。そこには日系人が集まるサンゴンサロ教会があり、武内重雄神父が司る毎朝7時からのミサに、彼も参加していたという。教会内には渡辺マルガリーダが創立し、長年会長を務めた聖母婦人会もあった。

サントス強制引上げ者援護の話をすると、歴史に詳しいはずのマルチンスさんも「初耳だ」と唸った。「マリオのお母さんは日系コミュニティだけでなく、ブラジルにとっても重要な役割を果たしていたんだな。彼女の列福・列聖調査を始めるなら喜んで協力しよう」と感慨深げに何度も頷いた。

 

© 2014 Masayuki Fukasawa

Ives Gandra da Silva Martins Margarita Watanabe
About the Author

Nasceu na cidade de Numazu, província de Shizuoka, no dia 22 de novembro de 1965. Veio pela primeira vez ao Brasil em 1992 e estagiou no Jornal Paulista. Em 1995, voltou uma vez ao Japão e trabalhou junto com brasileiros numa fábrica em Oizumi, província de Gunma. Essa experiência resultou no livro “Parallel World”, detentor do Prêmio de melhor livro não ficção no Concurso Literário da Editora Ushio, em 1999. No mesmo ano, regressou ao Brasil. A partir de 2001, ele trabalhou na Nikkey Shimbun e tornou-se editor-chefe em 2004. É editor-chefe do Diário Brasil Nippou desde 2022.

Atualizado em janeiro de 2022

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