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山本喜誉司とサンパウロ日本館 ー 知られざる芥川龍之介との関係

〝サンパウロのセントラルバーク〟と呼ばれるイビラプエラ公園にある「日本館」は、8月29日に60周年式典を行い、日本から茶道裏千家の千玄室第十五代家元らを迎えて、しめやかに祝った。この建物は桂離宮を模して設計され、柱や瓦はもちろん玉砂利にいたるまで日本から持ってきた〝純和風〟建築としても、世界的に珍しいものだ。

 日本文化の持つ「普遍性」を形にした日本館

山本喜誉司(『山本喜誉司賞の歩み』同記念誌編集委員会、2009年)

これを実現したのは、サンパウロ州カンピーナス市に現存する「東山農場」支配人の山本喜誉司(1892―1963、東京)だ。山本は戦後、サンパウロ市が主催した市誕生400年祭(1954年)の日本人協力委員会代表を務め、その委員会を発展的に解消して作った日系社会の中心機関・サンパウロ日本文化協会創立(1955年、現ブラジル日本文化福祉協会)を通して、終戦直後から「勝ち負け抗争」により二分していた日系社会の統合をなしとげた人物として、日系社会では一般的に知られている。

そんな山本の二男カルロス坦さん(たん、88、北京生まれ)を2012年6月末、自宅に訪ね、東京時代の芥川龍之介との関係などを聞いた。

日本館を設計した堀口捨己は山本と同じ東大。山本は1917年に農学部卒、堀口は1920年に工学部卒で学部違いの後輩だ。堀口は欧州の新建築様式に強い影響を受け、「日本人建築家」として、どうそれと相対していくかを模索する中で、数寄屋造りを〃日本建築の精華〃と考えるようになった。

だから日本館は同様式の代表である桂離宮を模し、堀口の代表作の一つと言われる。彼は単に伝統回帰をしたのではなく、現代にも通用する「普遍性」を求めた。

《ヨーロッパが20世紀にようやく気づいた非相称性重視の美学を、日本は何百年も前に数寄屋造りとして実現している、つまり先んじていると見た》(INAXレポート186号4頁)。まさに日系社会が日本文化の中に普遍性を見出し、ブラジルに植え付けようとする営為そのものだ。

東大卒、満州経てブラジルへ

山本は東大農学部を卒業後、三菱に入社し、小岩井農場で牧畜を学び、東山農事社が中国などで展開していた農場を経営するために、家族を北京において赴任した。北米から棉実を輸入して主に綿花改良や栽培に従事し、計7年間も住んだ。

4人の子供のうち長女・瑶子のみ日本生まれで、次の息子2人(幹、坦)は北京生まれ、最後の三男・準がブラジル生まれという現在からみても実に国際的な家族だ。

1926年10月、山本は東山農場購入のために単身ブラジルに渡り、翌年には家族を呼び寄せた。岩崎家による東山農事株式会社(本社=東京)が東山農場の経営母体だ。岩崎久彌社長(創業者・岩崎弥太郎の長男)は、山本喜誉司に全幅の信頼を置いていた。

坦さんは「岩崎久彌は日本移民のことをとても気にしていて、ブラジルの農業はサトウキビとコーヒーだけで、いずれ国際相場の暴落で痛い目を見る。だから父にお金儲けのためではない、作物の種類を増やすような実験農場をつくって農業技術を広めてくれ」と依頼したと聞いている。

アルコール度が高くて安いピンガ(サトウキビの蒸留酒)を飲みすぎて、身体を壊す日本移民が多いことを山本は憂い、ブラジル初の日本酒『東麒麟』醸造に踏み切ったとも言われる。

坦さんは「父は最初、農場経営のために一時滞在のつもりで来た」という。山本はブラジル人のポルトガル語教師をつけてすぐにペラペラになり、当地有数の研究機関だったカンピーナス農事研究所の学者や幹部と親交を深め、ここが気に入った。でも、山本に永住を決意させる決定打となったのは、渡伯4年目の1930年3月に長女・謡子が当地で腸チブスにより亡くなったことだった。

東山農場に作られたテニス場で撮影。1935年ごろ。山本喜誉司(中央後ろ)と3人の息子たち(前列中央が坦)=山本家所蔵

日本移民因縁のヴァルガス大統領

ゼッツリオ・ヴァルガスが1930年に革命を起こして政権を握り、共和国憲法を停止した。コーヒー産業中心に新興勢力だったサンパウロ州は、リオのヴァルガス大統領に対し1932年に「憲法を護れ」を旗印にして護憲革命を起こし、3カ月間で連邦軍に敗退した。その最後の決戦場の一つになったのが東山農場だった。

ヴァルガス大統領は1937年からは独裁政権となって国粋政策を推し進め、1945年末まで権力の座にいた。ブラジル独自の国民音楽としてサンバを振興し、サッカーを国技として育てるなどの国民アイデンティティを育んだ。産業界においても製鉄事業を創始し、ペトロブラス(石油公社)などの重要機関を創立、近代的な労働法整備などをして「国家としての骨格を作った」といわれる重要な人物だ。

大戦中に米国の強引な外交政策に巻き込まれに、欧州戦線にブラジル遠征軍を出兵させ、国内の枢軸国移民を迫害したことでも知られる。その一貫で東山農場をはじめとする大手日本企業や移民が経営する大農場は資産凍結された。そんなヴァルガスだが大戦終了後は軍部に退陣を迫られ、追い出された。

戦争を挟んだ期間の迫害が日本移民に強い精神的ストレスを与え、「日本が負けるはずがない」という強迫観念を植え付けた。終戦の時、敗戦を受け入れるかどうかという時、「負けるはずがない」と考えた移民の大半は「勝ち組」となり、受け入れた「負け組」と対立して殺し合いにまで発展し、ブラジル社会に最悪の印象を与えていた。

双方が一緒に取り組める何かを見つけるしか、日系社会融和の道はないと山本は考えた。当初は祖国救援の「ララ物資」を送る運動がそうなるかと思われたが、勝ち組の反発を買って融和まで行かなかった。坦さんは「勝ち負け双方が手を組んで取り組める何かをと父は考え、聖市400年祭の準備を始めた」と振り返る。

さらに「イタリア移民やドイツ移民、英国や米国などがイビラプエラ公園にパビリオンを作ったが、常設館は日本だけ。父は『日系社会を統合するには時間がかかる。後世に残る立派なものを作らなければ、勝ち負け抗争で広がった悪いイメージを払拭することは出来ない』と考えました」と解説する。

2011年1月のルセフ大統領就任式に訪れた麻生太郎日伯国会議員連盟会長(現副総理)が、日本館の庭にある池の鯉に餌をやっている様子
(写真=ニッケイ新聞)

不屈のヴァルガスは1950年の大統領選挙で民主的に再選された。日本館は1954年5月に上棟式、8月31日に竣工した。その竣工一週間前の8月24日、大戦中に日本移民を苦しめた因縁のヴァルガス大統領は政敵からの圧迫に耐えきれず自殺を遂げていた。

日本館建設翌年の12月、同協力委員会を発展的に解消して日系社会の中心機関たるサンパウロ日本文化協会を創立し、1958年の移民50周年で三笠宮殿下ご夫妻の来伯を実現するなどして日系社会の統合に苦心した。さらに寿命を削るように文協ビル建設に邁進した。

同性愛にも譬えられそうな熱烈な芥川との親交

実は文豪・芥川龍之介の妻は、山本の姉の娘であると同時に、本人同士も東京府立三中時代からの竹馬の友だった。約80通もの交換書簡がある。坦さんによれば、生前に「私の死後この書簡類は焼却するように」と家族に言いわたしていたという。

1954年に大宅壮一が聖市の山本邸をわざわざ訪れて「書簡を見せてほしい」とお願いした時も断っていた。坦さんは「父はいつも芥川と手紙をやり取りしていたが、母は芥川のことを『頭が切れすぎる人だ』と怖がっていた」と思い出す。

月刊『望星』(東海教育研究所、2007年8月号)の《特集―芥川龍之介の「手紙」》には驚くべき内容が書かれている。山本と芥川は一高時代、同性愛にも譬えられそうな熱烈な親交があったというのだ。同33頁には芥川が送った書簡中には、「僕は君によりて生き候君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候」との、若き文豪ならではの赤裸々な青春の言葉が紹介されている。

また同特集には、53年から3年間ほど滞伯して山本喜誉司の仕事を手伝った経験のある、日本在住の挿絵画家・長尾みのるのインタビュー記事も掲載され、山本から直接に聞いた興味深い逸話が明らかにされている。

山本は芥川の執筆活動にもアドバイスをしていたというのだ。

《芥川が自分の作品は金にならない、だから自分が死んだあとは遺族がかわいそうだと言っていたというんです。で、どうしたらいいのかというので一緒になって作戦を考えたと言っていた。(中略)山本さんは、ヨーロッパ文学の例などを分析してみると、後世に残る作品には一定の条件みたいなものがあるから、そういう方程式を導き出して、その通りにやればいいんだと言って一緒に考えた、そして芥川は実際にそれをやったというんですね》(同特集25頁)。

山本が1963年に亡くなった時に、なぜか手紙は焼かれず、日本の研究者の問い合わせを受けた遺族が全書簡を送ったことから、その親密な関係が明らかになった。

山本喜誉司の論文「ウガンダ蜂はかく語りき」(東大博士号)の中の、自分が描いた挿絵を懐かしそうに指さす坦さん。ドイツの哲学者ニーチェの代表的著作「ツァラトゥストラはかく語りき」を意識した論文タイトル自体が、農学だけでない素養の深さをうかがわせる。

もし芥川がブラジルに来ていたら?

『山本喜誉司評伝』(サンパウロ人文科学研究所、1981年、18頁)には、《山本には芥川をブラジルに呼んで、広々とした自然、清浄な大気、そして激しい熱帯の太陽の下で、衰弱した芥川の肉体と精神を甦らせるが、初めからの夢であった》とある。精神的に病みやすい芥川の性格を知悉していた山本らしい思いだが、残念なことに実現されなかった。

山本には「芥川にブラジルを題材に何かを書いてほしかった」という気持ちがあったのではないか。芥川は1927年7月、36歳の若さで服毒自殺した。年表をよく見てみると、山本が渡伯した翌年だ。もし芥川をブラジルに呼ぶことに成功していたら自殺しなかったかもしれない。そして1930年の護憲革命終盤の東山農場を舞台にした傑作を書いていたかもしれない。

1930年に移民船で渡伯した経験を描いた小説『蒼氓』(石川達三)が、奇しくも1935年の第1回芥川賞に輝いた。移民をテーマにした小説が、自分の名を冠した賞に輝いたことを、最も喜んだのは天国の芥川だったかもしれない。

一日4箱の愛煙家だった山本は肺ガンで1963年7月31日に亡くなった。山本は文協会長であると同時に、当時、茶道裏千家のブラジル支部長でもあった。同年4月から病床に伏していた山本は、死の十日ほど前、副支部長の蜂谷専一を呼び出した。病床に伏しているはずの山本は、なぜか着物に着替えて正座をして待っており、《後を君が引きうけてくれれば安心して逝ける》(『山本喜誉司評伝』人文研、81年、62頁)と言ったという。死に際をわきまえた人物だった。

「もう身近な存在としての父を語れるのは僕だけです。今回語ったことの多くは家族しか知らなかった」。最後に坦さんはそう付け加え、会話を締めくくった。

山本が実現に骨を折り、堀口が日本館に込めた志に共鳴した中島工務店(本社・岐阜)の中島紀于代表取締役は、日本移民80年祭(1988年)以来、90周年、昨年の105周年と節目の年ごとに、自腹で宮大工を連れてきて補修を行っている。

今年8月にブラジルを訪問した安倍晋三総理も日本館を訪れた
(写真=ニッケイ新聞)

 

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