Descubra Nikkei

https://www.discovernikkei.org/pt/journal/2010/04/07/

オレンジ郡は「海の向こうの日本」ーオレンジ郡の過去を振り返るー

地平線の果てまで続いている海岸線。
まぶしい太陽の光。
宝石のようにキラキラと輝く海の水。
世界中から訪れる人々を魅了するテーマパーク。
一日じゅう歩き回っても、飽きることのない大型ショッピング・モール。
物語やドラマに出てくるような、大きくて綺麗な家。
健康で文化的な生活を容易に営むことの出来る経済的な豊かさ。
非の打ち所の全くない、一年を通した温暖な気候。

カリフォルニア州南部にある、オレンジ郡をひとことで表すのならば、「極楽」という言葉が最もふさわしいと思います。しかし、多くの人々はこのオレンジ郡の歴史に目を向けることがありません。オレンジ郡が、ロサンゼルスのベッドタウンという印象だけが根付いていることは、私自身にとってはとても残念なことです。というのも、オレンジ郡は、日系人や日本人と非常に関わりの深い地域なのです。それは、ただ単に日本人がたくさん住んでいるから、あるいは、日本の会社がたくさん進出しているから、という理由だけではありません。オレンジ郡には100年を越える日系社会の歴史があり、日系人はオレンジ郡の発展に欠かせない民族だったからです。

1. 戦前のオレンジ郡の日系社会

日本からの移住者であった一世がオレンジ郡に最初に来たのは、今から100年以上も前の明治時代の終わりの頃でした。大正時代にはいると、オレンジ郡の日系人は、青唐辛子の栽培を盛んに行うようになりました。全米で消費される青唐辛子の多くが、オレンジ郡の日系人によって生産されるようになったのです。青唐辛子のほかに、トマトなどの野菜類、そして苺も栽培され、アメリカ国内に向けて出荷されていました。そのほかには、養鶏で生計を立てる日系人や、鯉の養殖をする日系人もいました。

また、日系人による文化活動も盛んに行われていました。ガーデン・グローヴ市には、日本語学校がつくられました。そこでは、運動会などの日本の学校行事が行われました。柔道場もつくられ、将来の日系社会を担う若者たちが、各地の日系社会の対抗試合で大活躍しました。なかには、柔道の国際親善試合のために、日本を訪問した若者もいました。オレンジ郡の日系教会のひとつである、ウインターズバーグ長老教会がつくられたのもこの頃です。戦前のオレンジ郡においては、日系社会の急速な発展がみられたのです。

. 戦時中

ところが、日本軍による真珠湾襲撃、日米戦争の開戦、さらには、大統領行政命令9066号が出されたことにより、オレンジ郡の日系社会は崩壊していきました。戦争が始まった直後、オレンジ郡では夜間外出禁止令が出され、さらには長距離の外出も禁止されました。その数ヵ月後には、多くの人々が、アリゾナ州につくられたポストン収容所に送られました。人々は、灼熱の気候だけでなく、サソリやガラガラヘビといった有毒動物の危険にもさらされました。

. 戻れぬ我が家と反日感情

収容所での生活を余儀なくされた日系人らは、戦争が終結し、住みなれた我が家に戻ることが出来る日を指折り数えて待っていました。しかし、オレンジ郡に住んでいた多くの日系人にとってそれはかなえることの出来ないものでした。戦争勃発直後の混乱と、突然の立ち退き命令のために、多くの人々は土地や財産などの生活基盤を失ったため、戦前のようにオレンジ郡で農作業を営むことは不可能に近かったからです。しかし、中には、幸いにも、信頼できる白人に農地を託したことによって土地を失わずにすんだ人や、運良く農地を借りたり、購入することが出来た人々もいました。オレンジ郡に戻ることが出来た日系人は、住み慣れた土地で戦後の再出発をしようと試みたのです。

しかし、それは決して容易なことではありませんでした。当時は、まだ反日感情と隣りあわせだったのです。日系人は、オレンジ郡に日系人が戻ってくることを望まなかった白人らの差別的な嫌がらせに直面しました。戦前から戦後の数十年にわたって、オレンジ郡内で農業を営んでいたマスダ一家も反日感情の波にさらされた人々でした。日系人の再住を望まない白人によって、爆発物を送りつけられたのです。さらに、マスダ家の息子のひとり、カズオ氏は、第442部隊の2等軍曹としてアメリカの国のために戦い、イタリアで戦死したのですが、地元ウエストミンスター市の墓地が、カズオ氏の埋葬を日系人という理由で拒否したのです。

しかし、この一件が地方紙で取り上げられたことによって、オレンジ郡の反日感情の状況も変わってきました。反日感情撲滅の行進が行われ、アメリカ軍の幹部らが視察のために、オレンジ郡を電撃訪問する事態に発展したのです。そのひとりに、後に大統領となるロナルド・レーガン氏がいたことも特筆すべきでしょう。そして、この時、彼は日系人に対する差別を是正するための演説を行いました。さらには、カズオ氏の埋葬拒否の事実も多くの人々の耳に入り、地域住民などからの強い抗議があり、ウエストミンスター市の墓地が、最も条件の良い墓地へカズオ氏を埋葬することで解決にいたりました。

終戦後、日系人はアメリカのさまざまな地域で、激しい反日感情にさらされました。戦後の再出発と日系社会の建てなおしが、収容という苦しみを味わった日系人にとって、さらなる苦しみであったことも忘れてはなりません。

. 短農の若者たち

戦後のオレンジ郡の日系社会において、特徴のある出来事といえば、短農の若者がやってきたことであると私は思います。1950年代から1960年代にかけての約10年という短い期間でしたが、日本国内の厳しい審査をクリアした数百名の日本の若者たちが、オレンジ郡で農業を営む日系人の農場で働くためにやってきました。3年間という限られた期間ではありましたが、短農として、オレンジ郡にやってきた日本人は、朝から晩まで働き続けました。特に、農繁期になると、徹夜で働くことが毎日のように続きました。当時、オレンジ郡においては、苺とセロリの生産が、とても盛んでした。勤勉な短農の若者たちは、農場を経営する日系人にとって、非常にありがたい存在でもありました。日本からの若者たちは、短期間ではありましたが、農作業などを通して、オレンジ郡の経済の発展だけではなく、日系社会の発展にも寄与し ました。

余談ではありますが、短農にまつわるエピソードとして、このようなものがあります。短農の若者たちは、英語が公用語であるアメリカで働いてたので、多くの日本人は、彼らが日本に帰国した際には、英語が堪能になったのだろう、と思いがちです。ところが、短農の若者たちのなかには、英語を話す機会が少なかった人々がいました。雇い主が二世であったり、または日本で初等教育を受けた、日本語が堪能な帰米二世だったり、あるいは、一世との交流があったからでした。さらには、メキシコ人と一緒に働くこともあったので、スペイン語が堪能になって、日本に帰国した短農の若者たちもいたのです。

. 日本企業の進出と「ゆうかり会」

1980年代ごろから、多くの日本の企業がオレンジ郡に進出し、多くの日本人が、駐在員としてオレンジ郡に住むようになりました。さらには、日本の小売店や、書店などがオレンジ郡で店舗を展開するようにもなりました。現在、オレンジ郡には紀伊国屋、三省堂、さらには、ブックオフが店舗を展開しています。さらには、日本企業の進出のために、日本たたきが全米で広まったことも、多くの日本人にとって、記憶に新しいことであると思います。

その当時、オレンジ郡では、駐在員の配偶者たちによるグループ「ゆうかり会」がつくられました。ゆうかり会の活動には、地域社会への奉仕活動や、文化活動、さらには、フラトン市にあるカリフォルニア州立大学で行われた日系人のオーラル・ヒストリー調査への協力がありました。特に、地域社会への奉仕活動は、アメリカ社会における、日本人や日本企業に対するイメージアップに貢献しましたし、日系人のオーラル・ヒストリー調査においては、アート・ハンセン教授による一世のオーラル・ヒストリー調査に積極的に協力しました。

アメリカにおいては、日本の企業に対して、収益を地域社会にあまり還元していない、という評価をすることがよくありますが、「ゆうかり会」のように、地域社会の振興のための奉仕活動を積極的にやっていた日本人の存在を知ってほしいと私は思います。

. わたしたちの「ふるさと」でもあるオレンジ郡

私自身にとって、オレンジ郡は第2のふるさとです。私は、日本の高校を卒業してから、オレンジ郡にある大学に進学し、そこで日系人をはじめとするアジアおよび大洋州系のアメリカ人の歴史、そして、オーラル・ヒストリーを学びました。現在の私自身の研究活動にとって、基礎となる重要なことがらを私が学んだだけではなく、オレンジ郡の地で、多くの人々とのあいだに友情を育んだことも、私にとって忘れることは出来ません。

オレンジ郡を訪問するときは、私は必ずといっていいほど、街中の景色と、頭のなかで描いた、農作業に励む日系人や、短農の若者たちの姿を重ねあわせます。ベッドタウンになってしまったオレンジ郡ですが、その地は、かつては日系人が農業を通して、オレンジ郡だけではなく、アメリカ経済を支える要であったことを、私たちは忘れてはならないと思います。

カリフォルニア州のオレンジ郡は、日系人にとっても、そして、日本人にとっても、関わりの深い地域なのです。それは、運命の赤い糸で結ばれた関係のようなものであると、私は思います。日系人にとっても、さらには、日本人にとっても、オレンジ郡は、切っても切れない、そしてかけがえのない地域のひとつです。ですから、より多くの人々に、その歴史に対する大きな関心を持ってほしいと思います。

© 2010 Takamichi Go

Califórnia Condado de Orange Estados Unidos da América Sul da Califórnia
About the Author

Na Orange Coast University, na California State University Fullerton e na Yokohama City University, ele estudou a história da sociedade americana e da sociedade asiático-oceânica americana, incluindo a história da sociedade nipo-americana. Atualmente, embora afiliado a diversas sociedades acadêmicas, ele continua a pesquisar de forma independente a história da comunidade Nikkei, especialmente para “conectar” a comunidade Nikkei e a sociedade japonesa. Além disso, a partir da posição única do povo japonês com ligações a países estrangeiros, estou a expressar activamente as minhas opiniões sobre a coexistência multicultural na sociedade japonesa, ao mesmo tempo que soo o alarme sobre as tendências introspectivas e até xenófobas na actual sociedade japonesa.

(Atualizado em dezembro de 2016)

Explore more stories! Learn more about Nikkei around the world by searching our vast archive. Explore the Journal
Estamos procurando histórias como a sua! Envie o seu artigo, ensaio, narrativa, ou poema para que sejam adicionados ao nosso arquivo contendo histórias nikkeis de todo o mundo. Mais informações
Novo Design do Site Venha dar uma olhada nas novas e empolgantes mudanças no Descubra Nikkei. Veja o que há de novo e o que estará disponível em breve! Mais informações