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南米のハート・パラグアイに育った日系社会

はじめに

南米パラグアイ(公称:パラグアイ共和国)の日系社会の歴史は1936年に始まり、2008年で72年を迎えました。パラグアイはブラジル、ボリビ ア、アルゼンチンの三国にはさまれた内陸国で、外洋に出るには陸路で隣国を通過するか、アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスを経て大西洋に流れるパラグ アイ河(ラプラタ河)を下るしかありません。南回帰線上に位置し、気候は内陸性の亜熱帯です。パラグアイ河の東部地域は日本とほぼ同じ降雨量、しかし、西 部は乾燥地帯です。国土面積は日本よりやや広い程度ですが、人口は2004年時点で619万人です。そして、そのほとんどは東部に住んでいます。

日本人のパラグアイ移住のきっかけは、当時最大の日本人移民受入国だったブラジルが、1934年に「移民二分制限法」を制定し、日本人移民の受け入 れを制限したので、日本政府が新しい移住先を求めたことです。一方、パラグアイでも、1932年に始まったボリビアとのチャコ戦争で国土が疲弊しており、 経済復興のために移民導入を奨励していました。

苦難の戦前移住

1936年、日本人が初めて入植したラ・コルメナは、首都アスンシオンから約120キロ離れたところでした。新規入植者の受け入れは1941年まで 続き、ラ・コルメナに入植した日本人は130家族に達しました。しかし、太平洋戦争勃発を機に、祖国日本とのつながりが途絶えました。

ラ・コルメナは首都へ出るにも一日がかりという不便な立地条件だったため、移住者は手軽な野菜作りで生活資金を得ることも出来ませんでした。また、 戦争中、日本人は敵性国民としてみなされ、1951年の日米講和条約締結まで、日本語学校の禁止や移動を制限され、不自由な生活を余儀なくされました。

また、1947年以降、パラグアイで繰り返された政変は治安の悪化をまねき、ラ・コルメナでも盗賊団が出現しました。その結果、生活に不安を感じ、多くの移住者がアルゼンチンやブラジルへ流出しました。

入植当初は原生林の脇でテント生活 (パラグアイ日本人会連合会提供)

原始林を切り開いた戦後移住

一時途絶えていた日本からのパラグアイ移民は、1955年、チャベス地区への入植をもって再開されました。多くの日本人が、戦後の日本を離れ、パラ グアイに新天地を見出そうとしたのです。その結果、原始林の中に、ラパス、ピラポ、イグアスという名の集団移住地が次々に開設されました。また、ブラジル 国境アマンバイ地区には、コーヒー園雇用契約農として入植するグループもいました。

1956~60年にかけ、パラグアイには合計約8,000人の日本人が移住したといわれています。しかし原始林開拓は想像以上の苦労をともない、 1998年の日系人口は日本での就労者を加えても約7,000人にすぎません。移住の歴史的背景が違うとは言え、26万352人の日本人移民が1999年 には日系人口130万人にまで増えたブラジル、3万5,685人が移住し8万人に増えたペルー、1万7,464人が移住し3万2,000人に増えたアルゼ ンチンと比べると、パラグアイ移住の厳しさが想像されます。

移住70周年を迎えて

矮小な国内市場と、厳しい原始林開拓に苦労を重ねてきた日系人移民も、移住者の努力と日本政府の協力を得ながら、この70年間、パラグアイに様々な 貢献をしてきました。特に、農業部門の貢献は著しく、日系人が導入した野菜栽培は、今日では、多くの小規模現地農家を育成しただけでなく、パラグアイ国民 の食生活改善に大きな貢献を果たしました。

中でも日系人の貢献が著しいのは、小麦・大豆栽培です。
30年前、100%輸入に頼っていた小麦を、日系農家が大豆の裏作として栽培を始め、その生産はJICAによる品質改良のサポートを得て大幅に伸び、現在 では国内生産が国内消費をまかない、さらには輸出が出来るまでに成長しました。また大豆栽培では、日系は不耕起栽培という新技術を導入・確立し、パラグア イの大規模機械化栽培を可能にし、現在、パラグアイは世界第4位の大豆輸出国にまで発展しました。その結果、かって未開の原始林であった戦後移住地は、現 在、大型機械化農業地帯に変貌しています。

日系の貢献は人的分野にもあらわれ、パラグアイの電信電話公社総裁、軍最高司令官、警察副長官、駐日パラグアイ国大使といった役職に、日系が就くようになりました。

パラグアイ日系社会の特色

パラグアイ日系社会は、全国9ヵ所にまとまってコミュニティを形成しています。それぞれの地区では日本人会が組織され、その日本人会がそれぞれ日本語学校を運営し、日本語学校が日系地域社会のカナメとなっています。

日本語学校に通う生徒数は多く、2007年現在で日本語学校10校の生徒数を合わせると760人にのぼり、日系人口の1割以上を占めます。なお、10校のうち7校は幼稚園から生徒を受入れています。

近年、パラグアイでは日本語・日本文化に対する関心は高く、非日系の生徒を受入れる日本語学校も増えています。また、首都アスンシオンを中心に日本 語教育機関も増え、日本語・日本文化を教育にとりいれた現地の私立校(文部省認可)も数校あります。日系では、創立7年と13年を迎える日系私立校(文部 省認可)2校があります。

今後の日系社会の課題

日系社会は世代が進み、現地社会との融合が進み、日系社会における後継者育成は大きな課題となっています。例えば、都市部の日本語学校に入学する児 童では、片親だけが日系の子供たちがその過半数を占めています。各家庭で使われる言語も、若い家族を中心に日本語からスペイン語へと代わりつつあります。 このような推移のなか、どのように日系の長所を維持しつつ、日系社会と現地社会の共存共栄を可能にするかかが大きな課題です。

また、日系社会における少子化、核家族化、日本就労による若い世代の流出の中で、日系社会の高齢化が急速に進み、今後、社会福祉制度が遅れているパラグアイで、日系高齢化社会にどのように対処するかは大きな問題です。

日系社会の目指すもの

戦前移住から72年、戦後移住から53年、日系社会は少数でありながらも、協力しながら現在の発展を獲得してきました。かってスタートが同じであった日系社会も、今では、それぞれの間で格差が目立つようになりました。

しかし、小規模な日系社会では力の強いものだけが残っても、社会がなりたって行かないのが現実です。たとえば、発足当時から現在まで引き続いて、日 系社会のカナメになっている日本語学校も、力のある少数の日系で維持運営することは困難でしょう。力のある少数のためだけの日本語教育なら、日本語学校で はなく、「家庭教師」に頼るでしょう。しかし、「家庭教師」では日本語の力はついても、学校という集団で学ぶ規律・我慢・協調・協力などの、日系の大切な 文化・価値観の継承は困難でしょう。また、その日系の文化・価値観がなくなれば、日系社会の将来も心配です。
日本語学校の運営を含め、将来を見据え、受け継ぐべき日系文化の継承者たちのために何ができるか、何をすべきかを考える時を迎えています。

日系社会とは・・・

交通と情報機関が発展した現在、日系社会の現実、また将来は、かっての場所を限られた日系社会ではなく、より開かれた日系社会に変わってきています。
例えば、パラグアイ日系コミュニティは、パラグアイにある日系社会だけを示すものではなく、日本やメキシコなど、他国で活躍する日系パラグアイ人も含まれ ています。ほかに、JICAボランティア事業を通じ、パラグアイと日系社会で活躍するボランティア、また多くの分野でパラグアイ日系社会をサポートする日 本の民間の方々も、今日では重要な日系社会構成要員です。

パラグアイ日系社会も、限られたパラグアイの日系だけを頼っていては将来がありません。これまで以上に、日本と、また世界の方々との結びつきを深めることこそ、パラグアイ日系社会の発展につながるものだと信じています。
皆さんはどう思いますか?

まずはパラグアイという国、パラグアイの日系社会に興味を持たれてみませんか?

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ラ・コルメナ移住地 歴史写真館: http://www.discovernikkei.org/nikkeialbum/ja/node/5370
ラ・コルメナ移住地の入植当初から現在にいたるまで、コミュニティの様子を紹介する写真集。(パラグアイ日本人会連合会)

© 2008 Federación de Asociaciones Japonesas del Paraguay

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