302 results

Finding family’s barrack on map of Crystal City
Kazumu Naganuma 20 de setembro de 2019
The map of the entire Crystal City camp. We were really in this area here. …

His sister Kiyo was like a second mother to him
Kazumu Naganuma 20 de setembro de 2019
She's the one out of all of us that was the most outspoken. Outspoken in …

Help received in fighting deportation
Kazumu Naganuma 20 de setembro de 2019
We were going to be deported in 1947 September, when we were getting out of …

Relating to Hispanic immigrant families at detention center in Laredo, TX
Kazumu Naganuma 20 de setembro de 2019
But this Laredo trip was the closest I felt that I could feel what my …

Being a Criminal Lawyer
Mia Yamamoto 14 de julho de 2020
I’ve been a criminal lawyer my whole career. So I’ve been in and out of …

Influence of Mexican culture after returning from camp
Mia Yamamoto 14 de julho de 2020
You know, it’s interesting because when we first came back from Camp, we actually got, …

Impact of her father
Mia Yamamoto 14 de julho de 2020
He was very stern and stork, a typical Nisei man, didn’t talk about anything. I’ve …

戦時中に厳しく規制された外国語教育
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
それでブラジル政府は、まず1938年の12月でしたかね、外国語による教育を禁止したんですね。それはドイツ語と日本語とイタリア語だったんです。英語とフランス語はそういった制限にはひっかからなかったんですけど。 ただサンパウロの場合はですね、ハワイにおける日系人と同じで、そのイタリア語を制限すると、サンパウロの街が成り立っていけないような感じだったはずなんですね。イタリア語の影響がサンパウロにおいては強いんで。そうするとイタリアは、戦争が始まってもすぐ降伏してしまったり。イタリア移民とかイタリア語に対する制限てのはそんなに厳しくなかったような気がする。 日本語は、もう日本語とドイツ語ってのはやっぱり、ものすごくやっぱり厳しく制限されてですね、戦時中なんてのは、日本語、3人で日本語喋っているとなんか逮捕されるとかですね、そういうようなこともあった。

勝ち組・負け組
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
それから、1941年ですか、昭和16年の7月末ですかね、今度はもう外国語による新聞の発行が禁止されたんですね。そうすると日本人の圧倒的大多数はポルトガル語ができないから、結局その日本語の新聞によるそのニュースがわかんなくなってしまって。で、そのうち戦争が始まり、日本からのニュースが短波放送によるものしか聞けなくなってですね、それで戦争が終わった時に、戦争が終わった時に日本が勝ったとか負けたとかそういう議論になる、なるわけですね。それで、勝ち組とか負け組とか言う、今で言えば考えられないような、そんなことが起こってですね。 その日本が負けたと認識していたのは、やっぱりそのポルトガル語が分かり、あるいは英語がわかるような、いわゆる日系社会のインテリ層の人達だったんですが、しかしその臣道連盟とかそういうのが、結局その日本が負けたと言ってる連中は国賊だ見たいなことになり、それで、そんな今で考えればちょっとなんて言いますかね、本当に常識外れのようなことが起こって。たしか23人位のいわゆる認識派ですね、敗戦派と言うのが殺害され、150~160人が怪我をし、それでまあブラジル政府もほっとけなくなってですね、それでまあ、あのそういった人達を逮捕して、サンパウロ州の北部海岸にあるアンシェッタ島という島の刑務所に送り込んだと。 100周年、2008年の時に、「私は誰誰をえ~殺したんだ」と言うような人なんか出てきたりしてですね。その彼が腹に巻いていたというその寄せ書きがまぁ今移民資料館に飾ってありますけどね。

Loss When Leaving for Manzanar
Iwao Takamoto 6 de agosto de 1998
I think we lost an awful lot of things I would love to still have …