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Experimentó con los niños usando sistemas de video portátil (Inglês)
Mitsuru “Mits” Kataoka 15 de setembro de 2017
(Inglês) Empecé explorando lo interactivo. Lo interactivo significa que usaba los sistemas portátiles Akai y …
Sua família viajou para o Japão em 1940 (Inglês)
Howard Kakita 3 de setembro de 2019
(Inglês) Meu pai recebeu palavras - por carta – de que seu pai estava gravemente …
Contando à esposa que tinha doença de radiação e o câncer de seu filho (Inglês)
Howard Kakita 3 de setembro de 2019
(Inglês) Quando decidimos nos casar em 1962, muito antes de você nascer, '62, contei à …
His sister Kiyo was like a second mother to him
Kazumu Naganuma 20 de setembro de 2019
She's the one out of all of us that was the most outspoken. Outspoken in …
家の中で日本語を話すことを強要した父
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
家の中では日本語を話せと。弟や妹はブラジルで生まれたわけだから、弟や妹はどうしてもポルトガル語でしゃべる傾向があったけど、やっぱり父は洋服の仕立て屋だから、四六時中家にいるわけですね。それで、ポルトガル語でしゃべっていると怒られたりですね。日本語で話せと。 だから、最初のころはまぁ抵抗はなかったけれど、思春期になると、そういうのに非常に抵抗を覚えてですね。なんだ、ブラジルへやってきてね、日本語ばっかりしゃべって、っていう。それを今度は子供たちに強制するのはけしからんと思ったりしましたけど。まぁ今はですね、やっぱりそういう風にして日本語を話すことを強制してくれるだけあって、日本語が話せることにはならないわけで、そういう意味では親に感謝してますね。
戦時中に厳しく規制された外国語教育
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
それでブラジル政府は、まず1938年の12月でしたかね、外国語による教育を禁止したんですね。それはドイツ語と日本語とイタリア語だったんです。英語とフランス語はそういった制限にはひっかからなかったんですけど。 ただサンパウロの場合はですね、ハワイにおける日系人と同じで、そのイタリア語を制限すると、サンパウロの街が成り立っていけないような感じだったはずなんですね。イタリア語の影響がサンパウロにおいては強いんで。そうするとイタリアは、戦争が始まってもすぐ降伏してしまったり。イタリア移民とかイタリア語に対する制限てのはそんなに厳しくなかったような気がする。 日本語は、もう日本語とドイツ語ってのはやっぱり、ものすごくやっぱり厳しく制限されてですね、戦時中なんてのは、日本語、3人で日本語喋っているとなんか逮捕されるとかですね、そういうようなこともあった。
奥様とのなれそめ
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
サンパウロ大学の日本語学科に試験を受けて入ってみたら、同級生に2人非日系人がいてですね、日本語が全くわかんないから、週末にそのうちの一人の家に集まってですね、日本語を少し教えるというようなことをやってるうちに、そのうちの1人とお付き合いをするようになり。お友達でいるうちはうちの親は何も言わなかったけど、ある時お付き合いをしているのがバレて、かなりけしからんみたいなことになってですね。 その時しかし、もう日本に行くことは大体もう決めていましたから。(彼女は)東京外国語大学の日本語学科に4年間いて、さらに筑波大学に行って修士課程と博士課程で全部10年日本にいたんですね。私もたまたま10年間日本にいて。私が博士課程を終えた時に、じゃあそろそろ結婚をするという年齢にもなっていたし。 日本で彼女はブラジルに赴任する人たちにポルトガル語を教えたりしてて、そうすると、そういう人たちがブラジルにやってきて、うちの親に会ったりすると「息子さんのフィアンセに会ったたけど、彼女はなかなかいいんじゃないですか」と言ってくれて、親も仕方ないと思うようになったんですかね。
子供の日本語教育について
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
サンパウロに住んでるうちにですね、私の父は1989年に亡くなって、母親は私の家族、弟の家族も自分のところに来て住まないかと言ったけど、母は私のところに来ることを選んで、我が家で生活を始めたと。そうすると、三男が1990年に生まれてますから、三男がおばあちゃん子で、一生懸命おばあちゃんが日本語で喋ってですね。それから上の二人も日本語で喋って。うちの母が子供達の日本語教育に貢献してくれたけど、夫婦の会話は常にポルトガル語ですよ。母親だけが日本語しか喋れないので、母親と私の子供達、母親と孫達、母親が日本語で話すのはわかってたんですかね。 冬になると東京大学に招かれて行くようになって。それはそれで悪いことじゃなかったのは、宿舎を与えられましたから、小さかった子供達を連れて日本に行って、母親も連れてって。したがって自分は、直接こういうれっきとした教育方針をもって、子供たちをある一定のモラルの元に日本語も教えてというようなことは、自分の教育方針としてはっきりと持っていたわけではないけども、しかし間接的にそういう風にして日本に連れて行ったり、日本文化に接するということはしましたね。
日本人のアイデンティティを持ったブラジル人
Masato Ninomiya 19 de setembro de 2019
一応私はバイリンガルということになっているわけですね。日本語を話してて、私が日本人だと皆思うんでしょうね。日本人が非常に不思議がるのは、そこで電話がかかって来たり、あるいはブラジル人が入って来たりすると、即ポルトガル語に言葉が変わるじゃないですか。それはまあ非常に見事に切り替えができるわけですよね。 その時のアイデンティティーはどうかというと、私は二十歳でブラジルに帰化しているんですね。ですから50年間ブラジル人として生活してきている。日本国籍はその時になくなってますからね。したがって身分証明書上は私はブラジル国籍、ブラジルパスポート。日本では永住権を持っていますけど、日本では外国人ですよね。 しかしそれは単なる紙の上の話であって、「国籍はどこですか?」と聞かれたらブラジルと答えますけど、一方では日本人としてのアイデンティティていうか、それは日本人以上に持っている面もある。 ブラジル人であればこういった反応はしないだろうなと思うものが結構あって。しかし、ブラジル人の中でポルトガル語を喋っている感覚の中では、ブラジル人として普通に持っているものもありますね。
Impact of Coming Out on Her Family
Sabrina Shizue McKenna 14 de julho de 2022
When you have children, I think it's not healthy to be closeted. I actually had …