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難民として米国移住した日本人たち その4: 渡米2年で郷里に家が建った-小屋喜生さん-

福田 恵子

>>その3 (西屋国弘さん)ロサンゼルス郊外ノースリッジで引退生活を送る小屋さんは串木野市出身。1955年、難民移民枠を適用し、夫婦で渡米してきた。

難民として米国移住した日本人たち その3: 努力すれば報われる国-西屋国弘さん-

福田 恵子

その2(宮内武幸さん)>>ロサンゼルス空港に近いウェストチェスター在住の西屋さんは、構造設計が専門である。彼もまた難民として渡米してきた一人である。

No art form is more creative than Sōgetsu: Haruko Takeichi

福田 恵子

Discovering a new world by diving into materialsIt was 1980 when Haruko Takeichi, an interior designer at a designing studio run by her husband in Alhambra, California, entered the Sōgetsu school of Ikebana. Drawn by the refreshing use of live flowers in designing, she has since been involved in both …

難民として米国移住した日本人たち その2: 日航機が太平洋就航した年に渡米-宮内武幸さん-

福田 恵子

その1 (難民移民誕生の経緯)>> 難民救済法によって渡米してきた鹿児島県出身者は約300名。その中の1名が、日置郡出身、現在はモントレーパークに暮らす宮内武幸さんだ。鹿児島 では狭い土地を切り開く開拓農業に従事していた宮内さんにとって、広大なアメリカの大地での就労は願ってもないチャンスに思えた。そして、1955年10月、日本航空が初めて太平洋線を就航させた年に、宮内さんは日航機で海を渡った。

難民として米国移住した日本人たち その1: 難民移民誕生の経緯

福田 恵子

「難民救済法」という移民法を聞いたことがあるだろうか。1953年に施行されたこの法律を適用して渡米してきた日本人がいる。日本人が難民?誰し もそう思うに違いない。しかし、50年以上前に渡米した日本人難民たちは、カリフォルニアの農園での就労を経て、このアメリカにしっかり根を下ろしている のだ。

Listening for the Voices of the Flowers: Yokou Kitajima

福田 恵子

Surprised by the American ideas not seen in JapanYokou Kitajima majored in geological engineering at a Japanese university and worked for a landscaping company upon graduation. He entered the Sōgetsu School of Ikebana (flower arranging) during his college years and his career now stems 37 years.

「アメリカで育つ日本の子どもたち」-編著者 片岡裕子さんに聞く-

福田 恵子

全米各地の日本語教育の実態と、補習校や日本語学校に通う日本の子供たちの意識や日本語力について調査した「アメリカで育つ日本の子どもたち」を著した片岡裕子さんは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校日本語学科で教授を務めている。

新二世のアイデンティティー: 補習校か、日本語学校か?

福田 恵子

私の子供たちはアメリカ生まれの二世である。私と私の夫は日本生まれの日本人。そんな日本語を第一言語とする我が家の長男が最初に通った学校は、ロサンゼルス郊外のトーランスにある日系の幼稚園だった。この幼稚園では英語は一切使わず、徹底した日本式の幼児教育を行っている。1年後、3歳になった息子は英語のプレスクールにデビューした。当時、英語はゼロの状態だったが、何とかプレキンダーガーテン、キンダーガーテンと進級し、地元レドンドビーチ市の公立小学校の1年生になった。今から5年前のことである。

母国アメリカと戦った日系人たち その3: 兄弟で敵味方に分かれて戦う-阿久根三郎さん-

福田 恵子

その2 (大森馨一さん)>>阿久根三郎さんは1926年カリフォルニア州中部の生まれ。7歳の時に、兄弟と共に親の故郷、鹿児島へ渡る。母親が亡くなったので、鹿児島の祖母の 元で暮らすらめだった。9人兄弟の上から6番目。名前の三郎は3番目の男の子だったからだ。父親は子供たちを故郷に連れて帰ると、すぐに仕事をしにアメリ カに戻っていった。兄弟だけで残された日本では、日本語がわからないだけでなく、年より下の学年に入れられたことも原因となり苛められた。抵抗するため に、三郎少年は剣道を習い始める。自分と兄弟たちを守る手段だった。

母国アメリカと戦った日系人たち その2: 国籍を問わずに徴兵、中野学校への命令 -大森馨一さん-

福田 恵子

その1 (小野正己さん) >>小野さんに続いて話を聞いたのは、1917年カリフォルニア州ベンチュラ生まれの大森馨一(けいいち)さん。当時の二世の例に漏れず、大森さんも日本で教育を受けるために、10歳で両親の故郷である熊本へ。小学校を卒業して中学から大阪外語へ進学した。蒙古(モンゴル)語を専攻し、昭和15年 (1940年)に卒業し、政府機関に就職。赴任先のモンゴルへ向かった。そこで徴兵され、一旦日本へ帰国、久留米の第一戦車隊に入隊した。将校になるため の幹部候補生だった。

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I'm a freelance writer living in Redondo Beach, Southern California. I have interviewed so many Japanese Americans and Shin-Issei Japanese since 1992. I really enjoy to meet people and write for Discover Nikkei.

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  • コミュニティ
  • 日本食・日系フード

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