全米日系人博物館 『コモン・グラウンド -  コミュニティの心』

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カリフォルニア州ロサンゼルスにある全米日系人博物館は、日系アメリカ人の体験を伝えるアメリカで初めての博物館です。 ここでは、全米日系人博物館の常設展『コモン・グラウンド - コミュニティの心』を紹介します。実際に、博物館を訪れることのできない方、博物館を訪れたけれどもっとよく知りたい、そのような方々を対象に作りました。 このコレクションを通じて、日本ではあまり知る機会のない、日系アメリカ人の歴史に少しでも興味を持っていただければと思います。
*全米日系人博物館 janm.org

Slides in this album 

『コモン・グラウンド - コミュニティの心』

19世紀後半、夢と希望を持ってアメリカへ渡ってきた日本人移民たち。アメリカの文化や慣習を取り入れ、地域社会との交流を図りながら、新しい土地で自らのコミュニティを形成してきました。しかし、1941年12月、日系コミュニティの行く末を大きく変える出来事が起こりました。日本軍によるハワイの真珠湾攻撃です。

全米日系人博物館の常設展『コモン・グラウンド(一致点)』は、戦時中の強制収容の体験に焦点をあてながら、現在の日系アメリカ人のコミュニティの形成・変遷の過程を紹介していす。この展示を通して、日系アメリカ人らが体験した国家による不正義が二度と起こらないよう、また社会や国家に対し公正と正義を要求することの重要性を少しでも感じ取っていただければという思いが、この展示には込められています。

Sign: Common Ground: The Heart of Community
提供: editor

第1展示室: ハート・マウンテンのバラック - 過去からの教訓

階段を2階に上がったところに、『コモングラウンド』の展示室があります。左手方向には、この写真にある大きな建物を目にすることができると思います。

これは、ワイオミング州ハート・マウンテンの強制収容所跡地から移築したバラック(小屋)の一部です。

第二次世界大戦中、およそ12万人の日系アメリカ人(日本移民とその子供たち)が強制収容されたことは、ご存知でしょうか?当時、全米にこのような収容所は10箇所あり、各収容所には約1万人が収容され、終戦まで3年余をこのようなバラックで過ごすことを余儀なくされたのです。

***なぜ?日系人は収容されたの?***

第二次世界大戦中、日本は枢軸国として、ドイツ・イタリアと同盟を組み、連合国側と戦っていました。日本軍によるハワイの真珠湾攻撃を機に、アメリカ合衆国は、連合国側に参戦しました。当時アメリカに住んでいた日系人は、アメリカの市民権を持っているかどうかにかかわらず、誰もが「敵国人」とみなされ、強制収容の対象となったのです。実際、収容された者のうち、約3分の2はアメリカの市民権を持ったアメリカ生まれのアメリカ人でした。

Heart Mountain Barrack
提供: editor

ポイント1:  アメリカと日本の市民権の違い

日本では、両親が日本人であれば、自動的に日本の国籍を得ることができます。しかし、アメリカ合衆国では、アメリカ国内で生まれる全ての子供たちにアメリカの市民権が与えられます。両親が日本人だろうと、その国籍は関係がありません。アメリカの市民権を持つこと=アメリカ人としての権利を保障されることにもなります。しかし、第二次世界大戦前、日本人移民たちはたとえ希望しても、アメリカの市民権を取得することは許可されていませんでした。

「市民権」 の概念は、アメリカ政府によって行われた日系人に対する強制収容の政策を考える上で、とても重要です。このアルバムを見るにあたり、皆さんも一緒に考えてみてください。

Naturalization
提供: yn

第2展示室 - 1: 移民と初期の日系コミュニティ

この展示室では、アメリカへ移住した初期の日本人移民たちが、どのようにアメリカ社会で日系コミュニティを築き上げてきたのか、その過程や当時の様子を紹介しています。

The Ahmanson Foundation Gallery
提供: editor

19世紀末: 日本人移民のはじまり

日本人のアメリカへの移民は19世紀末に始まりました。その理由は様々で、西洋式の教育を求めて渡米した留学生、お金を稼ぐことを目的に海を渡った農民や労働者などがいました。初期の移民のほとんどは、生涯アメリカに留まることを目的にしていませんでした。

Students
提供: editor

柳行李(やなぎごうり)

「柳行李」とは、柳の皮を編んで作った収納ケースです。初期の移民らは、このようなケースへ所持品を詰めてアメリカへやってきました。

Kori baskets
提供: editor

ハワイへの移民

日本人の海外移住は、1868年(明治元年)「元年者」と呼ばれるハワイへの移民に始まりました。ハワイへの日本人移民の多くは、「契約移民」で、サトウキビの農園で働きました。

写真は、プランテーションで働く日本人女性です。彼らの服装に注目してください。これは、日本の着物をハワイのプランテーションで使いやすいようにと、アレンジしたものです。

Hawaii - Barbara Kawakami
提供: editor

アメリカ本土への移民

日本人移民は、アメリカ本土へ広がっていきます。特に西海岸を中心に、各地へ移住しました。オレゴンやワシントンの林業地、カリフォルニア、ユタ、コロラドの農場などで働いた日本人移民らが実際に使用した道具などを展示会場では実際に目にすることができます。

この写真は、オレゴン州パークデールにあったハマダ家の果樹園(1920年頃)です。当時のオレゴンの様子は、Oregon Nikkei Endowmentが作った別のアルバムをご覧ください>> Nikkei Farmers of the Hood River Area (英語)

*全米日系人博物館の展示室からの写真ではありません。

Hamada Family orchard, Parkdale, Oregon, ca. 1920
提供: Oregon_Nikkei

写真花嫁と二世誕生

1908年の紳士協定によって、新規の日本人契約移民の渡米が禁止されましたが、すでに国内に在住している一世の配偶者の入国者の入国は可能でした。そのため、以後、1924年に新規日本人移民の入国が完全に禁止されるまで、多くの女性らが新しい機会を求め渡米し、アメリカで新しい家庭を築きました。

1910—30年代、アメリカ生まれの二世が増加。1940年(昭和15年)頃には日系人の60%を占めるようになりました。

****写真花嫁とは?****

すでに渡米していた一世の多くは、日本にいる女性と写真を交換し、自らの花嫁を探しました。その結果、多くの女性らが、新しい機会を求め、写真交換した男性と日本で籍を入れた後に渡米しました。これが、一般に「写真花嫁」と呼ばれる女性たちです。

Henry Sugimoto, "Untitled (Stop Picture Bride)"
提供: eishida

ビデオ: 初期の日系コミュニティのようす

一世たちは、日本文化とのつながりを維持しながらも、徐々にアメリカ社会へ適応していきました。

ここで紹介するビデオは、1930代頃に撮影されたホームビデオのコレクションです。日本とアメリカの要素を融合した固有の日系コミュニティの様子をご覧ください。

*博物館内で展示されているビデオとは異なります。

7th Street Produce Market, Los Angeles (Kiyama_02)
提供: HNRC

二世へのバイリンガル教育

20世紀初期、さまざまなビジネスを始める日系人が目に付くようになりました。

日系社会では、コミュニティ情報だけでなく世界のニュースをカバーする邦字(日本語)新聞が発行されました。

アメリカ生まれの二世の子供達は、ボーイスカウトへの参加などアメリカ人としての教育を受ける一方、日本語学校で日本語、日本文化・伝統などを学びました。

*写真は、展示会場に再現された、ロサンゼルスにあった羅府第二日本語学園の教室のようすです。

Japanese Language school
提供: editor

反日運動(排日運動)

しかし、日系人コミュニティが拡大するにつれ、日本人の存在とそのコミュニティの成長を快く思わない活動家が、排日運動を始めるようになりました。日本人による土地所有の禁止、日本語学校への弾圧、移民規制の強化(後に入国禁止)などが行われたのも、この時期です。

Anti-Japanese
提供: editor

第2展示室–2: 真珠湾攻撃と日系コミュニティ

1941年12月7日(日本時間8日)、日系人とそのコミュニティを混乱に陥れる出来事が起こりました。日本軍によるハワイの真珠湾攻撃です。

Attack on Pearl Harbor, Hawaii
提供: yn

『大統領令9066』

真珠湾攻撃の翌日、アメリカ政府は第二次世界大戦に参戦を表明し、即座に全米の日系コミュニティの指導者を逮捕、拘禁しました。

翌年2月には『大統領令9066』が発布され、西海岸在住の全ての日系人は強制収容所へ送られることになりました。アメリカの国籍を保持しているかどうかにかかわらず、在米の日系人はすべて「敵国である日本人」と同一視されたのです。

Exclusion Order
提供: yn

リトル東京、西本願寺前(全米日系人博物館の旧館)

写真は、強制退去を命じられた日系人らが、リトル東京の西本願寺前(全米日系人博物館の旧館)に集まり、バスに乗って集合センターへと移動するところです。

収容所の建設が間に合わなかったため、日系人らは一時集合センターへ集められ、その後収容所へと移動させられました。

Jack Iwata - "Aerial perspective of crowd boarding buses in front of Nishi Hongwanji Buddhist Temple, Los Angeles, CA, 1942"
提供: eishida

収容所へ持っていったスースケース

収容所へは、手に持てる荷物のみしか持って行くことが許されず、日系人の多くは築き上げた財産のほとんどを失いました。また、コミュニティによっては48時間以内の強制退去の命令を受け取るところもありました。

写真にある展示ケースにあるスーツケースは、当時日系人らが、収容所へ行く際に使ったもので、それぞれの家族と荷物には番号札がつけられました。

Suitcases
提供: editor

第3展示室: 強制収容所、戦争中の日系人コミュニティ

1942年から1945年にかけて、日系アメリカ人の多くは武装兵士の監視の下、有刺鉄線に囲まれた大規模な収容所での生活を余儀なくされました。規模の小さい収容所もいくつかあり、そこにはFBIに拘束された一世のコミュニティリーダーたちが家族から引き離された状態で収容されました。

この展示室では、強制退去から収容所での生活の様子、コミュニティの反応などをまとめてあります。

The Ahmanson Foundation Gallery
提供: editor

強制退去の準備をする西海岸の日系人

強制退去のため、自らの店を売りに出してる写真です。

"I AM AN AMERICAN" (私はアメリカ人です)というサインがかがげられているように、アメリカの市民権をもっているかどうかというのは関係がなく、西海岸に住む日本人の血をひくものすべてが強制退去の対象になりました。

Sold the store, following evacuation orders, Oakland, CA
提供: yn

収容所への移動の写真

皮肉なことに、写真の日系人は、アメリカの軍服を着ています。第一次大戦中、アメリカ軍にてアメリカ祖国のために戦った日系人までも、真珠湾攻撃を機に「敵国人」とみなされたのです。

Japanese Soldiers - World War II
提供: eishida

収容所の地図

全米各地に作られた収容所の地図です。それぞれの場所を確認してください。

***西海岸の日系人以外の収容者***

ニューヨーク州エリス島には、東海岸在住の一部の日本人移民(一世)が、テキサス州クリスタルシティ収容所には、日系アメリカ人コミュニティのリーダーだけでなくペルーなど南米から連れてこられた日系人らが収容されていました。

Japanese American Evacuations
提供: eishida

収容所にて

写真はアリゾナ州ヒラリバーにあった収容所です。このような収容所(WRA-戦時転住局が運営する収容所)は全国各地に10箇所あり、アメリカの市民権を持つ者が約3分の2を占めていました。

この収容所の様子をもっと見たい方は、別のアルバムをご覧ください>>
Gila River Relocation Center - National Archive Items

A panorama of the northwest section of Camp number Two at Gila River Relocation Center, Rivers, Arizona.
提供: misacowee

収容所内の生活を示す写真

収容所生活を余儀なくされた日系人らは、今後の将来に不安を抱きながらも、平常の生活を行おうと努力をしました。収容所内には、学校や教会、同好会などを設立され、外の世界と同様、スポーツ大会、ダンスパーティー、葬式、クィーンコンテストなど、様々なイベントが行われました。

これらの写真に写っている人々のほとんどは微笑んでいますが、有刺鉄線に囲まれた土地から、自由に外出することが許されなかった彼らにとって、収容所の生活は決して楽しいものだったとは言いきれません。これはなるべく平常の生活を行おうとしていた彼らの気持ちの表れかもしれません。

この後、いくつかの収容所ないの写真を紹介します。

Jack Iwata - A Basketball Game
提供: eishida

ハワイの日系コミュニティ

当時、ハワイの総人口の約40%が日系人だったため、一部のコミュニティリーダーなどを除き、ハワイの日系人らは強制収容の対象にはなりませんでした。

***ハワイの二世の反応***

強制収容の対象にならなかったアメリカ生まれの二世の多くは、祖国アメリカのためにと、アメリカ軍へ志願しました。ハワイの二世だけで編成された100歩兵大隊、後に強制収容されていた二世も加わった第442連隊戦闘団が有名な部隊です。

Nisei Soldier in Hawaii
提供: editor

強制収容への反応

強制収容という政府の不当な対応に対しては、日系人のなかでも意見が別れ、それぞれが異なった反応を見せました。その多くは、アメリカ政府の政策に従うことで、戦時中の混乱を乗り越えようとしました。

また、政府の日系人強制収容政策に反対し、日系人らをサポートする非日系人たちもいました。一方、少数ではありますが、退去命令や門限令の違法性を、法廷で問う道を選んだ人(収容所へ入ること自体を拒んだもの)もいました。

中には、アメリカ政府に絶望し、戦後は敗戦国日本へ帰国する道を選ぶものもいました。写真は、強制収容所を開放され、戦後の日本へ送還される道を選んだ人々です(1945年11月)。

Tule Lake social hall
提供: editor

忠誠登録

敵性外国人として収容した日系人らに対し、アメリカ政府はアメリカ国への忠誠を問うという矛盾した行為を行いました。

アメリカ合衆国へ忠誠誓わなかった者は、特別な収容所に連行されました。が、収容所内の日系人の間でも、意見が二つに分かれました。

Taking army oath, Manzanar, California, November 1944
提供: editor

質問27と28

忠誠登録の質問は、全部で30以上の質問事項で、特に問題となったのが、質問27と28。

質問27は、米軍兵士としての従軍する意思があるかどうか、質問28では、アメリカへの無条件の忠誠を誓い、同時に日本国天皇への忠誠心を拒否するかどうかを問いました。

この二つの質問に「いいえ」と答えたものは、アメリカへの忠誠意思がないとみなされました。

Tule Lake
提供: editor

ハートマウンテン・フェアプレイ委員会

ワシントン州ハートマウンテン収容所では、収容所からの徴兵に異議を唱えるグループができました。

収容所生活を余儀なくされることは、アメリカ市民としての権利を剥奪されたことになるからです。一方、アメリカ軍に徴兵されることは、アメリカ市民として義務を果たすことになるからです。この政府の矛盾した行為に意義を唱えたのです。

Draft resisters
提供: editor

日系アメリカ人兵の犠牲と活躍

アメリカ軍へ従軍した二世らは、勇敢に戦い、多くの犠牲と引き換えに、数々の功績を残しました。

442nd
提供: BShindo

戦場で活躍した日系兵たち

日系人部隊が送られたヨーロッパ戦線の地図や米国軍最高賞の名誉勲章を受賞した442部隊の兵士の活躍を知る事が出来ます。

442nd
提供: BShindo

陸軍情報部(MIS)

陸軍情報部(MIS)に従事した二世らは、自らの日本語スキルを生かし、通訳や情報収集など、秘密裏に活動しました。戦後のアメリカ占領下の日本では、日本国の立て直しにも大きな貢献をしました。

MIS
提供: editor

第4展示室: 再移住と再建そして歴史の再考:1945年から現在に至るまで

1945年、日本の降伏をもって強制収容所は閉鎖されました。一世の多くは高齢化しており、中には80歳を過ぎた人々もおり、彼らが戦時中に失ったもの全てを取り戻すことはできませんでした。

しかし、日系アメリカ人たちは、徐々に戦前に築きあげた社会との繋がりを回復させ、同時に新しい関係を広げ、新たな一歩を踏み出していきました。

写真は、シカゴへ再移住した人たちです。シカゴのコミュニティについては、こちらを参照下さい。 Origins of Now: ReBuilding Community, An Excerpt from an Exhibit on the Resettlement of Japanese Americans in Chicago(英語)>>

*博物館の展示室からの写真ではありません。

Work
提供: D_Burns

市民権と政治の世界

1950年代には、日系人にとって政治的に大きな変化が二つありました。移民法改正とハワイが州として認定されたことです。

これによって、一世の市民権取得が可能になり、特に当時、総人口の過半数以上を日系人が占めていたハワイでは、日系人の国政参画が可能になりました。

結果、ハワイから日系人の国会議員が選出されました。写真は、ダニエル・K・イノウエ上院議員です。

彼のインタビューを見る>>

Rohwer - Senator Inouye visits
提供: densho

公民権運動と日系人

アメリカの1950年代・60年代は、激動の時代でした。

人種差別を受け政治的に無力だったマイノリティ(少数民族派)は、アメリカが掲げる理想に見合う扱いを要求するようになりました。

日系アメリカ人もその例外ではありません。日系人以外のマイノリティがアメリカの過去を問い正す中、その頃ちょうど成人期にあった三世たちは、戦時中に家族が受けた不当な扱いを知るようになりました。

Civil rights march in Washington D.C., August 1963
提供: editor

補償運動

1970年代までには、多くの草の根活動団体が戦時中の強制収容の不当性を主張し始めていました。そして、日系人の基本的人権を侵害したことを認めるよう合衆国政府に要求しました。

1988年、政府は自らの過ちを認め、公式に謝罪し、被収容者に対し具体的な意思表示としての補償金を支払うことに同意しました。

展示室では政府が行った調査での証人証言のビデオや矯正運動に関わった方々のインタビューの一部の録音 (英語)を聞く事ができます。

写真は、収容所の体験を語る公聴会の様子です。

*展示室からの写真ではありません。

Commission on Wartime Relocation & Internment of Civilians
提供: intrepidmouse

マンザナ強制収容所の模型

日系人の収容所体験は、その後の日系人社会の形成にも大きな影響を与えました。写真は、戦後、日系人が自らの強制収容所の経験を整理するために作ったものです。

戦時中、アメリカ政府が日系コミュニティに対して行った誤った行為に対し、公正と正義を要求することの重要性を少しでも感じ取っていただけたでしょうか。

皆さんも日系人の収容所の意味について考えてみてください。

Manzanar model
提供: editor

Album Type

online exhibition

JANM — 更新日 6月 28 2021 1:49 a.m.


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