オハヨウ・ボンディア II

小さいころ、わたしは日本語とポルトガル語を混ぜて話していました。小学校に入ると、自然に日本語とポルトガル語を区別するようになり、ポルトガル語で文書を書くのが楽しみになりました。60年後の今は、ポルトガル語と日本語の両方で書くのが一番の楽しみとなっています。このシリーズを通して、いろいろなテーマの話をお届けできればと思います。朝のさわやかな挨拶のように、皆さんに届きますように。

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「バッチャン」は人気の言葉

わたしがまだ小さい頃、「ラウラのおばあちゃんは遠くに住んでいるのよ」と、母は写真を見せてくれながら、おばあちゃんのことを話してくれました。そして、12歳のとき、初めておばあちゃんの家を訪ねました。

祖父母、独身の叔父4人、おばあちゃんが預かっていた孫娘2人、同じ敷地に家を建てて暮らしていた叔父夫婦と5人の子ども、つまり、いとこだけでも7人も居ました。

サンパウロから10時間以上かけて、ようやく母と私が着くと、玄関で待っていたおばあちゃんが私の方に駆け寄って来て、強く抱きしめてくれました。「ラウラ!!」と、涙ぐんで言いました。私は緊張と感動と驚きのあまり、「おばあちゃん!!」と叫びました。

その瞬間、周りに集まってい…

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わたしも欲しい、日本の生地!

9月21日、ディスカバー・ニッケイに掲載されたミア・ナカジ・モニエさんのストーリーを読んで、とても感動しました。ミアさんが日本の生地専門店をみつけ、お母様と一緒にそこのソーイング教室に通い、ふたりでいろいろな物を作っていると読んだとたん、私と母の人生が重なりました。「あぁ、私たちにもこのような時があったわ」と、懐かしく振り返りました。

母はサンパウロ州の農家に生まれ育ちました。貧しい生活にも拘わらず、子供の頃からいろいろなアイディアを実行し、毎日を楽しんでいました。例えば、古着をほどいてエプロンや帽子や小物入れを作ったり、トウモロコシの皮で弟たちのぞうりを編んだりしていました。私と違い子供の頃からとても器用だった母…

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「JAPA」の意味を探りながら

言葉は生きていると思います。人の考え方や生き方が変わると、言葉も変わっていくと思います。

約60年前、わたしが子どもの頃、サンパウロ市に住んでいる日系人はごく少数だったので、「日本人」は、いろいろな意味で目立っていました。

当時、ほとんどのブラジル人が、日系人に対して、「ポルトガル語が分からない」「食べ物が違う」「習慣が変だ」などの独特のイメージを持っていたことを今でもよく覚えています。

わたしは、小さい頃から「言葉」に興味を持ち、その使い方にこだわっていました。

同年代の日系人が耳にたこができるほど何度も耳にした言葉は「Japonês garantido nô(直訳:日本人・保証できる・…

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夏に感じる文化の違い

今年のブラジルの夏は、70年ぶりの猛暑となり、とても大変でした。街を歩いていると、皆、真っ赤な顔をして、汗をかきながら、動きが鈍くなってへとへとでした。そんな中、昔から暑さが苦手な私ですが、今年は比較的楽に厳しい日々を乗りきることができました。その理由は、私が日本の夏の過ごし方をブラジルで実践したからです。夏になるとブラジルと日本の生活習慣の違いを実感せざるを得ません。

42年前に私は日本に留学しました。一人娘を旅に出した両親は「日本の冬の寒さ」を心配していましたが、私はなんとか無事に寒い冬を越すことができました。そして、初めての日本の夏がやって来ました。今振り返ってみると、あの夏は今でも印象深く心に残っており、大切な…

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「オメデトウゴザイマス」は、ポルトガル語になったの?

1月第1週の日曜日の朝、教会へ行く途中、ジョアキン君に出会いました。ジョアキン君とは、かわいいビーグルのワンちゃんのことで、初めて会ったのは3年前でした。

「Feliz Ano-Novo!」と、わたしが新年の挨拶をすると、飼い主さんは「オメデトウ」と、丁寧におじぎまでしてくれました。わたしは、とても驚きました。普通ブラジル人は頭を下げて挨拶する習慣はありませんし、「オメデトウ」は「アリガトウ」や「サヨウナラ」程、知られていないと思っていたからです。

そして、2日後の朝、再びジョアキン君に出会いました。散歩が始ったばかりのワンちゃんは「はやく、はやく」と言いたそうな様子だったので、わたしは「Bom dia!」と言ってか…

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