ディスカバー・ニッケイ

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日系カナダ人の亡命少年の生涯:ミキオ・イブキ


2018年11月26日 - 2019年1月7日

このシリーズは、バンクーバー生まれの日系二世、ミキオ・イブキの生涯を描いたものです。第二次世界大戦中、彼は故郷を追われ、家族とともにスロカン・シティの強制収容所に収容され、終戦時に日本に追放された約 4,000 人の日系カナダ人の 1 人でした。追放された人の多くは後にカナダに帰国しましたが、ミキオは帰国するつもりでいたものの結局日本に残った人々の興味深い例です。彼は神戸で真珠ビジネスで成功したキャリアを楽しみながら充実した生活を送り、最近では退職後もさまざまなボランティア活動で忙しくしています。

* このシリーズは、2017年3月15日付け甲南大学言語文化研究所誌3-42頁に最初に発表された「日系カナダ人強制送還者の生涯:父と息子のケーススタディ」と題する論文の要約版です


カナダ 移住 (immigration) 日系カナダ人 戦後 第二次世界大戦

このシリーズのストーリー

第7部:日本でのキャリアと成人生活

2019年1月7日 • スタン・カーク

パート6を読む>>当初の計画はカナダへの帰国、そして最終的には日本に滞在すること前述のように、ミキオさんの父は日本に帰国したことを後悔し、子供たちに「間違いだった」と何度も謝っていた。さらに、ミキオさんにカナダに戻って新しい生活を始めるよう何度も勧めていた。「ミキオ、日本は君が住むべき国じゃない。日本は君には窮屈すぎるし、君の性格は海外で暮らすほうがずっと向いている。カナダで生活してほしい」と言われたことをミキオさんは覚えている。ミキオさんはこの父の言葉を忘れる…

第6部:強制送還後の日本での幼少期と教育

2018年12月31日 • スタン・カーク

パート5を読む>>電車で父の故郷へ帰る家族は、東京の三鷹市にいる叔父の家に一週間ほど滞在した。その後、滋賀県彦根市近郊にある幹夫さんの父の故郷、三津屋まで、電車で苦労して向かった。電車は極度に混雑していて、移動は苦痛を伴った。ほとんどの人が身を寄せ合って立っており、数人は床に横たわっていて、動くのに苦労していた。実際、あまりの混雑ぶりに、故郷の三津屋に最も近い駅である河瀬に着いても降りることができず、京都の主要駅に着くまで電車に乗らなければならなかった。京都に着…

第5部:カナダでの幼少期と日本への強制送還

2018年12月24日 • スタン・カーク

伊吹幹雄は、カナダに帰国するつもりだったが、結局日本に残った日系亡命者の好例である。彼は、1940年1月1日にバンクーバーで、伊吹末次郎と光江の長男として生まれた。前述のように、彼には妹の和子(1942年7月9日、スローカンシティ生まれ)と弟の俊明(1944年11月3日、スローカンシティ生まれ)がいる。家族がバンクーバーから追われたとき、彼自身はまだ2歳6か月だったので、それ以前のバンクーバーでの生活の記憶はほとんどなく、ただ、走る電車を見て、近づきすぎないようにと母親が心…

第4部:伊吹末次郎 - 亡命と日本での生活

2018年12月17日 • スタン・カーク

パート3を読む>>強制収容後の日本への強制送還スエジロウとミツエは、カナダ東部への移住よりも日本への強制送還に同意した日系人のうちの一人だった。ミキオは、最も切実な理由は東京にいるミツエの両親の安否を心配していたことだったと考えている。前述のように、戦時中、日系カナダ人と日本にいる家族との連絡は途絶えており、連絡を回復し、家族の生存と安否を確認したいという切実な思いが、強制送還という選択を受け入れる最も強い動機の一つとなった。ミキオによると、父親には日本に帰国す…

第3部:伊吹末次郎 - バンクーバーでの戦前の生活、移住、そして強制収容

2018年12月10日 • スタン・カーク

カナダ東部への移住ではなく、幼い家族とともに日本への強制送還を選んだ日系人の一人が伊吹末次郎です。彼はすでに亡くなっているので、このプロフィールは息子の幹夫の回想や写真、個人的な手紙、そして末次郎の生涯に関するさまざまな公文書に大きく依存しています。幸いなことに、彼はそのような資料をかなり多く残しており、幹夫によって保管されています。彼のルーツとカナダへの移住末次郎は1908年4月28日、滋賀県彦根市近郊の三津屋という小さな農村に、4人兄弟4姉妹の4男として生まれました。1…

第2部:歴史的背景 - 日本の生活と生活環境

2018年12月3日 • スタン・カーク

パート 1 を読む >>日本への旅と彼らを待ち受けていた状況カナダが強制送還政策を終了したとき、約4000人の日系人がすでに日本に送られていた。彼らの34%は日本国籍(平均年齢51.6歳)、15%はカナダに帰化した市民(平均年齢56.5歳)、51%はカナダ生まれの市民(平均年齢16.7歳)であった(ティモンズ、DJ 「1946年のエヴァンジェリン:占領下の日本へのカナダから日系人の亡命」、修士論文、ビクトリア大学、2011年、p.70)。船上での彼らの宿泊、食事…

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このシリーズの執筆者

スタンリー・カークは、カナダのアルベルタ郊外で育つ。カルガリー大学を卒業。現在は、妻の雅子と息子の應幸ドナルドとともに、兵庫県芦屋市に在住。神戸の甲南大学国際言語文化センターで英語を教えている。戦後日本へ送還された日系カナダ人について研究、執筆活動を行っている。

(2018年4月 更新)