戦後の日本に引き揚げた満州生まれの母の記録

第二次大戦前、日本人はアジアの幅広い地域に移住し、中でも現中国東北地方の満州には、1940年時点で、82万人の日本人が在住していた。
筆者の祖父、河野進も戦前満州にわたったその一人で、母、恵美子は昭和12年(1937年)、満州で生まれた。このシリーズでは、3回にわたり母の引揚者としての記憶をたどる。
 

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第3回 再び満州の地へ

祖父の足跡を訪ねて

母と祖母の満州からの引き揚げから40年以上が経過した、今から34年前の1988年、私はかねてから温めていた計画を実行に移した。それは、母と祖母、そして私の三代で旧満州の地を訪ねるというものだった。私はその頃、東京の出版社に勤務していた。そして、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画、満州の傀儡皇帝、溥儀の一生を描いた『ラストエンペラー』を見て、幼い頃から母に聞いていた満州のイメージを具体的に描けるようになっていた。

祖母のカヨは当時、70歳。祖母と母の念願だった、スイカの駅で別れた後に捕虜として亡くなった祖父の最期の地を訪れるならその時しかないように思えた。ただし、まだ天安門事件前の中国では自由旅行は…

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第2回 戦後の引き揚げ

終戦、そして新京へ

恵美子の父親の進が戦地に赴いたのは、昭和20年の5月だった。「父は目が悪かったせいで、召集されたのも最後の頃、しかも兵隊としての等級も一番下だった。満州での現地召集となり、私は母やその頃まだ幼かった弟の正憲や妹の史子とスイカの駅で父を見送った。父は列車のタラップから身を乗り出すようにして、姿が見えなくなるまで手を振っていた」。それが父との最後の別れになるとは、その時はまだ知る由もなかった。

父を戦地に見送った3カ月後、現地の日本人は集まって天皇陛下の玉音放送を聞き、日本の敗戦を知った。もう満州は日本が支配する土地ではない、身の安全は保証されなくなると、一斉に日本人の引き揚げが始まった。しかし、その…

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第1回 満州での生活

「残留孤児だったかもしれない」

私が高校生の時、中国残留孤児と呼ばれる人々が来日し、記者会見を開いた。彼らは日本のどこかで暮らしているかもしれない親に対して、中国語で涙ながらに「会いたい」と呼びかけていた。日本語を理解しない人民服姿の彼らはどう見ても中国人にしか見えなかった。しかし、実際は戦後まもなく、当時の「満州」で親と離れ離れになり、中国人によって育てられたれっきとした日本人だった。私の母は、その記者会見の映像を見るたびに号泣しながら「私もあの人たちのように残留孤児になっていたかもしれない。他人事とは思えない。しかし、私の場合は母親が必死で、弟と妹と一緒に日本まで連れ帰ってくれた。感謝してもしきれない」と口にした。…

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