ディスカバー・ニッケイ

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吉田 純子

(よしだ・じゅんこ)


東京都出身。法政大学法学部を卒業後、渡米。カリフォルニア州立大学チコ校コミュニケーション学部を卒業後、羅府新報社に入社。編集委員としてロサンゼルス、カリフォルニアの政治関連ニュースのほか、南カリフォルニアにおける日系社会の文化、アート、エンターテインメントや日米関係に関する取材活動および記事を執筆している。

(2018年4月 更新)


この執筆者によるストーリー

若松コロニー:第5回 激動の時代を生き抜いた親子、佐吉と米の終焉の地、日本

2022年3月23日 • 吉田 純子

第4回を読む >> かつて若松コロニーにいた柳澤佐吉は1902年に日本帰国後、日本女子大学で西洋料理を教えた。同大学の成瀬記念館によると、1903年9月から嘱託教師として勤務し、1905年には退職しているという。 同大学では娘の米(よね)も同時期に英語の教師をしており、学報から2人の着任が確認できる。佐吉は1903年に「農事ニ関スル意見」という著書も執筆した。 米国で自身が得た知識と経験を日本で伝えていた佐吉だったが帰国から約3年後の1905年10月27日、東京市…

若松コロニー:第4回 東京の子孫「やっと会えた!」:佐吉と娘に写真で初対面

2022年3月2日 • 吉田 純子

第3回を読む >> 「やっと会えた!」。若松コロニーにいた柳澤佐吉のやしゃご、山口香奈子さんは佐吉の写真と初めて対面した時の衝撃をこう振り返る。「写真はもうないものだとあきらめていました」。香奈子さんの目に映る佐吉は「優しい雰囲気のひいひいおじいさん」そのものだった。そして初めて見る佐吉の娘・米(よね)は美しかった。 米バークレー初の日本人女学生・学業は優秀で地元紙がフルページで紹介 佐吉の長女、柳澤米は日本人女性として初めてカリフォルニア大学(現在のUCバークレ…

若松コロニー:第3回 待ち受けていた数奇な運命 - 日系女性の先駆者なみ

2022年2月16日 • 吉田 純子

第2回を読む >> 過去の日系史料などでなみは「佐吉の妻」としか伝えられていない。しかし彼女にもストーリーがあり、何より彼女は北米における初期日系移民の先駆者の1人であった。 外交史料館所蔵の「航海人明細鑑」のリストで若松コロニーに向かったとされる一行の中には「佐吉妻」と明記されたなみの名がある。 『日米新聞』1934年6月24付に掲載されたなみの長女・米(よね)のインタビュー記事によると、なみは米を身ごもると、当時サンフランシスコには良い医師と助産師がいなかった…

若松コロニー:第2回 カリフォルニアで夢を追う — 新天地目指した柳澤佐吉

2022年1月31日 • 吉田 純子

第1回を読む >> 若松コロニーにいた柳澤佐吉は戸籍によると1848年(嘉永元年)7月13日に生まれた。若松コロニーには20〜21歳ごろからいたと思われる。本籍地は群馬県碓氷郡坂本町となっており、横浜市史には南品川三丁目の伊勢屋長蔵のせがれと記されている。 日米新聞1934年6月24日付に佐吉の長女・米(よね)のインタビュー記事が掲載されており、父から聞いた話として米が伝えるには、佐吉はシュネル一行に加わり渡米し、若松コロニーがあったエルドラド郡では生活に苦労した様…

若松コロニー: 第1回 初期移民の先駆者、柳澤佐吉—子孫の自宅で写真や史料発見

2022年1月12日 • 吉田 純子

「そういえば、ずいぶん立派なお墓だなあ」 東京都在住の山口香奈子さんは2004年、祖母の葬儀に参列した際、ふと先祖の墓の大きさを不思議に思った。インターネットで墓石に彫られている名前「柳澤佐吉」を検索してみた。すると初期日系移民の先駆者だった先祖が浮かび上がってきた。 柳澤佐吉は米国本土初の日本人入植地「若松コロニー」にいた人物として知られる。 今回、子孫の自宅から佐吉の写真や一家にまつわる歴史的史料が発見された。子孫によると佐吉一家の写真を公表するのは今回が初めてだ…

「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その4

2020年2月10日 • 吉田 純子

その3を読む>> 家を守ってくれた隣人:メアリー・マッカンバー フロリン在住の日系3世レスター・オオウチダさんも戦時中、非日系米国人に助けられた一人だ。 オオウチダさん一家も戦時中、強制収容所に送られた。しかし、隣人が留守宅を管理してくれたおかげで、収容所から戻ってきても家はそのままの状態で残され、元の生活に戻ることができた。 「私たちは良い隣人に恵まれ、家を失わずに済みました。メアリー・マッカンバーが守ってくれたのです」 強制収容所に送られる前からオオウチダさん…

「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その3

2020年2月3日 • 吉田 純子

その2を読む >> 助けられた日系住民、真心の交流 戦時中の立ち退き命令により、多くの日系住民が汗と涙で築き上げた家や土地、仕事など苦労の結晶すべてを失った。 中には収容所に収容されている間、家や土地の管理をかってでる非日系米国人もいた。しかしその多くが無断で土地を売るなどし、強制収容所から戻ってくると、かつてのわが家や土地が他者のものになっているケースも多かった。 カリフォルニアのライス・キングとして知られる故・国府田敬三郎氏もその一人だ。強制収容所に収容されてい…

「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その2

2020年1月29日 • 吉田 純子

その1を読む >> 「祖父は自身が育った小さな町で行われていたリンチ(私刑)を見て育ちました。大人たちの間で何か問題が起こると、法廷で争われることなく、有罪か無罪か決められる。町の人々はただその人を有罪と決めつけ、リンチしていたそうです。祖父は子どもの頃、木によじ登り、狂った町の様子を見てきたのです。その時に見た恐ろしい光景から祖父には強い道徳観が芽生え、法曹界を目指し、『人として何が大切か』を考えるようになったといいます」。そう話すのはカー氏の孫で現在南カリフォルニアに…

「あなたの親切を忘れない」:カー知事没後70周年、日系住民擁護し立ち上がった人々—その1

2020年1月28日 • 吉田 純子

正義貫いた勇気ある行動 「彼らを攻撃するなら、まず私を攻撃しなさい」 1941年12月の真珠湾攻撃の後、日本人の血を引く日系住民は敵性外国人とみなされ、差別と偏見の目にさいなまれた。多くの人が彼らに敵意を向ける中、自らを危険にさらしてまでも、迫害に耐え忍ぶ日系住民を擁護し立ち上がった人々がいた。 当時のコロラド州知事ラルフ・ローレンス・カー氏は、街中が狂気にみち溢れる中、州民に対し演説の中でこの冒頭の言葉を述べ、日系住民への差別を直ちに止めるよう呼び掛けたのだった。 …

日系被爆者たちの声、心の傷跡【第2部】:核兵器廃絶訴え、平和への思い次の世代へ

2019年11月14日 • 吉田 純子

第1部を読む>> 広島と長崎、原爆犠牲者の追悼法要 「それは美しい夏の日の朝でした。74年前の8月6日、当時7歳だった私は2歳年上の兄とともに、爆心地から約0.6マイル(およそ1キロ)の場所で被爆しました」。小東京の高野山別院で4日に行われた記念法要にゲストスピーカーとして出席していた日系3世のハワード蠣田(かきた)さん(81)は、自らの被爆体験を当地の人々に伝える。核兵器廃絶を訴え、平和への思いを次の世代に語り継ぐ蠣田さんの被爆体験を聞いた。 一家、日米で離ればなれ…

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