ディスカバー・ニッケイ

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エミコ・ツチダ

(Emiko Tsuchida)

@emikotsuchida

エミコ・ツチダはサンフランシスコ在住のフリーランスライター兼デジタルマーケターです。混血のアジア系アメリカ人女性の表現について執筆し、トップクラスのアジア系アメリカ人女性シェフ数名にインタビューしてきました。彼女の作品は、ヴィレッジ・ヴォイス、アジア系アメリカ人メディアセンター、近日発売予定の「Beiging of America」シリーズに掲載されています。彼女は、強制収容所を体験した日系アメリカ人の体験談を集めるプロジェクト「Tessaku」の創始者でもあります。

2016年12月更新


この執筆者によるストーリー

テッサク
広瀬一樹 - パート1

2019年5月9日 • エミコ・ツチダ

「車には運転手を含めて6人乗っていました。でも、運転手自身も制圧されていたかもしれません。でも、彼らは私たちをとても信頼していたので、止まって昼食を食べさせてくれました。私たちは逃げることもできましたが、彼らは私たちをとても信頼していました。」 — 広瀬一樹広瀬一樹さんとの初めての会話は、古い友人と話しているような親しみと温かさに満ちていました。シリコンバレーの美しい田舎で育ったことや、キャンプで出会った友人たち(多くは今は亡き)の懐かしい思い出が、広瀬さんの語る物語に溢れ…

テッサク
海老原愛子

2019年4月24日 • エミコ・ツチダ

「第二次世界大戦の長い年月の間、私はあの疎開の日をとても個人的に受け止めていました。18歳の私にとって、それは『私の愛子』を奪った米国政府の不当な行為でした。」 — ヴェローラ・ウィリアムズ・モリス海老原愛子の物語は、第二次世界大戦が始まる前にオレゴン州セイラムに住んでいた2つの家族の間に育まれた友情から始まります。愛子の両親、マキとフランクはレストランのオーナーで、トキオすきやきの専属コックであり、レストランの上の狭い寝室に3人の幼い子供たちと住んでいました。愛子が生まれ…

テッサク
リリアン・オガタ・ボナー

2019年2月26日 • エミコ・ツチダ

リリアンと私は、2018年のマンザナー強制収容所巡礼から帰る途中で偶然出会った。オーエンズバレーからロサンゼルスまでの3時間半の長いバスの旅の途中で、組織委員会は収容所の生存者をグループに迎え、彼らの体験談を語ってもらった。リリアンは、自ら体験談を語り、マンザナー強制収容所との特別なつながりを明かした最初の人だった。彼女は収容所の孤児院の赤ん坊だった。正式名称は「チルドレンズ・ビレッジ」で、10か所の収容所すべてで運営されていた唯一の孤児院だった。(大統領令9066号の時点…

テッサク
ジャックとグレース・フジモト - パート 2

2018年12月26日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>それは、もうずいぶん時間が経ったからだと思います。私が話す人たちは、自分の親がどう感じていたかについて、もっと正直になったり、推測したりしています。人は年を取るにつれて、「自分の過去について、この真実を話したい」と気づくのだと思います。ジャック: うん。[グレースに] どう思う?グレース:家族の末っ子だったので、とても楽しかったです。ジャック:君には意見がある。 グレース:そうですね、私の父はおそらく最も理解しにくい人でした。父はとても強…

テッサク
ジャックとグレース・フジモト - パート 1

2018年12月25日 • エミコ・ツチダ

「最初の年、キャンプで母は死にそうになりました。暑すぎて。毎日食堂に行かなければならなかったのを覚えています。そこで彼らは『おい、ここから出て行け。もう氷はあげないぞ』と言い続けました。でも、暑さに慣れていない人はみんな苦しんだのです。それで母は死にそうになりました。」 — ジャック・フジモトジャックとグレース・フジモトの話を聞いていると、とても珍しいカップルがいることを実感せずにはいられません。結婚して60年以上になる2人は、10代の頃、ソーテルのジャパンタウン(西ロサン…

テッサク
マンザナーの歌鳥: メアリー・ノムラ - パート 2

2018年11月23日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>マンザナーに戻ると、あなたに「歌姫」というあだ名を付けた人はいましたか?誰が私にそのニックネームを付けたのかは分かりませんが、キャンプの音楽監督、ルイ・フリッツェルだったのではないかと思います。彼は私を指導し、教えることの無い日にはキャンプに出かけて、私が覚えられるように真新しい楽譜を持ってきてくれました。その日の新曲、流行の曲です。ジュディ・ガーランドやドリス・デイなど、人気があった人の曲を、彼は私が覚えられるように新しい楽譜を持ってき…

テッサク
マンザナーの歌鳥: メアリー・ノムラ - パート 1

2018年11月22日 • エミコ・ツチダ

「私は幼いころから、ラジオ歌手になるんだ、といつも思っていました。映画界には出られないだろうと思っていました。だって、映画で日本人の女の子が歌うのを誰が見るというのでしょう?だから、レコードで私が歌っているのを聞いても、それが私の日本人の顔で歌っているとは分からないでしょうから。」 — メアリー・ノムラ日米戦争が勃発したとき、メアリー・カゲヤマ・ノムラは 10 代でした。彼女と兄弟はベニスで完全に孤児となり、両親が 4 年以内に相次いで他界しました。そのため、家族を養うとい…

テッサク
佐藤アン - パート2

2018年10月2日 • エミコ・ツチダ

パート 1 を読む >>では、アメリカ人として、あなたは何か反発を経験しましたか?撃墜されたアメリカ兵がいたのを覚えています。飛行機が撃墜されたので、当然私は彼らに会いに来た子供たちの群れと一緒に走りました。彼は刑務所にいました。覚えているのですが、鉄格子は木製で、地元の刑務所でした。私は彼にとても同情しました。彼のことをとても気の毒に思い、涙を浮かべながらグループより先に家に走って帰ったのを覚えています。そしてあなたは残念に思いました。アメリカ兵が撃たれたり、…

テッサク
佐藤アン - パート 1

2018年10月1日 • エミコ・ツチダ

「工場にいたから機銃掃射を受けたのを覚えています。だから、どこを爆撃すればいいか分かっていたのでしょう。サイレンが鳴るたびに、私たちはしぶしぶヘルメットをかぶって森の中へ逃げ込んだのを覚えています。その時、私は心から神に祈りました。」 — アン・サトウ 1940年、両親と妹とともに太陽が降り注ぐ南カリフォルニアから日本へ向かう最後の船に乗ったアン・サトウの人生は、米国と両親の母国との間の緊張が高まる中で一変した。兄のジミーはトーランスの実家の食料品店を失い、ローワーの収容所…

テッサク
鶴巻ゆり - パート5

2018年7月9日 • エミコ・ツチダ

パート4を読む>>そして、あなたは再び結婚しました。それはどういうことだったのですか?ああ、テッドと一緒です。彼は日本で生まれ育ちましたが、日本航空の私のオフィスはロサンゼルスのダウンタウン、6番街にありました。ツアーに誘うために、人々が手に取れるようにラックに置くパンフレットが必要でした。それである日、日本旅行局に行って、昼休みに受け取ると言いました。それでオフィスに行きました。すると、いつも電話で話していた男性がいました。彼はとてもきついアクセントで、いつも…

この執筆者が寄稿したシリーズ
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