真珠湾攻撃(1941年)が起きた時点で、日本国内には1500名ほどの日系カナダ人がいたという(Ken Adachi, The Enemy That Never Was)。帰国の道を閉ざされた彼らの多くは「敵性国人」と疑われ、官憲から執拗に日本籍への変更を求められた。日本兵として出征した元バンクーバー朝日の選手に、和歌山の野田為雄(戦死)、広島の中西憲(戦傷)等がいる。
一方、二世の英語能力を活かして報道関係の仕事に就いた二世カナダ人が、少なくとも数人はいた。ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)を卒業し、日本政府から奨学金を得て来日し、上海のNHKでアナウンサーをしていた上野数馬。満州の新京(現・長春)で、国策新聞の英字紙デイリー・マンチュリアに勤めていた元ニューカナディアン編集長・東信夫(しのぶ)がいた。そして、東京のNHKには、英語番組「ゼロ・アワー」を制作していた元朝日チームの中村哲(さとし)がいた。
さらに、芸能界には藤原歌劇団の歌手として慰問団に加わり、戦地を巡っていた斉田愛子(BC州カンバーランド出身)がいた。愛子と哲はパウエル街の日本町で一緒に青春を過ごした仲だ。
日本在住の二世たちは皆、極めて高い能力を備えていたと思う。戦前のカナダで教育を受けた彼らに共通の思いがあるとすれば、あのままBC州にいては、人種差別的制度のために能力に見合った収入も社会的…