小嶋 茂

(こじま・しげる)

新潟県三条市出身。上智大学卒。ブラジル国パラナ連邦大学歴史科修士課程修了後、東京学芸大学などの講師を経て、JICA横浜海外移住資料館設立に関わる。早稲田大学人間総合研究センター招聘研究員。移民史、移民研究。主な著作に「日系コミュニティの将来とマツリ」(山本岩夫他編『南北アメリカの日系文化』人文書院、2007年)、「日本人移民の歴史から在日日系人を考える-ブラジル移住百周年と日系の諸相」(『アジア遊学』117、勉誠出版、2008年)、「海外移住と移民・邦人・日系人」(駒井洋監修『東アジアのディアスポラ』明石書店、2011年)。

(2021年4月 更新)

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日系人と名前

日系人の名前 「スジロ」?! ブラジルの著名なマンガ家ズィラルド(Ziraldo)の作品『マルキーニョ少年』(Menimo Maluquinho)に登場する仲間の一人に、スジロ(Sugiro)という日系人がいる。イチロやスシロならばまだしも、スジロなどという名前はどう考えても変だ。日系人や日本人の名前としてはおかしいとずいぶん前から感じていた。そしてある日、一挙にその謎が解けた。これはピアーダ(ブラジル風ジョーク)から生まれた名前だったのである。この話は、ブラジルにおいて日系人がどのように捉えられているかを知る上でも興味深い。 スジロは主人公マルキーニョ少年の近所の子で、日本人の子孫という設定である。日系人の大半がそう思われているように、従順でおとなしく勉強熱心。一番熱中しているのは、コンピューターだという。インターネットに浸りきりで、母親は彼を部屋から外へと引っ張りだしたい。しかしスジロを屋外へといざなえるのは唯一マルキーニョだけだ、との説明がサイトにある。そしてスジロの語源となった「あるブラジル名」と題するピアーダ(ジョーク)は、以下のとおりである。 “Um nome brasileiro”  Mal o japonês chegou ao Brasil, sua esposa já ia ter nen…

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日系人と日本語

移民家族とのひととき 「ヨウはカフェー・センアスーカにする。オッセーはどうする?」 「アルモッサもしていったらいい。」 戦前移民であるその一世長老は、日本から来た留学生である私が訪ねるたびに、そう言って歓待してくれた。そしてそのかたわらには必ず、婦人部で日本舞踊を舞い、俳句を嗜み、いつも笑顔のセニョーラ(夫人)がいた。この二人に加えて、二世の娘夫婦、そして時には片言の日本語を話す中学生の三世の孫までが同席し、入れ替わることもあったが、いつも家族のように接してくれた。そして最後は、お茶漬けと漬物の食事が定番であった。今となっては、もう再び会うことのできないその好々爺、そしてその家族との出会いは、遠くて懐かしい想い出、まさにブラジルのサウダージ(懐愁)という表現に相応しい体験だった。外国における独り身には、ずいぶん救われたひとときだったに違いない。 移民研究に取り組む今にして思えば、あの時期にその会話を記録したり、録音したり、なぜ思いが至らなかったのだろうか、と悔やまれる。いや、それは失礼なことになっていただろうし、研究対象としてあの家族を見る余裕などなかった。ちなみに、冒頭の文章は、「私は(砂糖を入れない)ブラックコーヒーにするが、あなたはどうする?」「昼食もいっしょに食べていったらいい」という意味になる。ヨウは殿様言葉「余は満足じゃ」の「余」ではなく、ポルトガル語の一人称…

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移民と移住者

移民と移住者の違いは何か。そして現在ではあまり聞き慣れない言葉だが、移住人や移住民、移民者という言葉も使われていた。これらの言葉の違いは何か。 結論から述べれば、これらはすべて同じ対象を指し、使われた時代が異なるだけである。しかし時代の変遷とともにその意味が変化した。さらには、移住という現象の始まりや状況変化に深く関わっている。これらの言葉がいつ頃使われたのかを確認しつつ、その背景を見てみよう。 歴史的に見ると、これらの言葉が出現する順番は、移住人・移住民・移民・移民者・移住者となる。しかし当初は、ほとんど区別されずに使われていたようだ。人を指す言葉ではなく、その行為を表す「移住」という言葉は、『中外新聞』の明治2(1869)年7月20日付に、「日本人亜米利加に移住の事」というタイトルで初めて現れる。しかし人を指す言葉としては、移住人という言葉が一番早く、1884年5月6日付『読売新聞』に「米国政府の移住人保護」というタイトルで現われる。その二年後1886年には、複数個所で移住民という表現が使われている。さらに二年後1888年の『東京朝日新聞』にも、移住民という表現がある。語尾が「人」であるか「民」であるかはともかくとして、その「移住」という語が出現するのは、上記『中外新聞』1869年を除き、1880年代半ば以降であることが分かる。これはいわゆる官約移民が1885年に始ま…

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日系人とは誰のこと?

「日系人」とは誰のことか。この問いに対する回答は簡単ではない。現在における定義は「永住を目的として海外に渡った日本人移住者、およびその子孫」である。しかし、その過去の定義を調べて見ると、時代とともに大きく変化している。さらに当事者の意識の問題がある。決められた定義とは別に、この言葉を使う側の人により、それぞれ異なる意味が込められることがある。そうなると話が噛み合わない。多くの一世つまり移住者は、自分は日本人で、現地で生まれた二世以降が日系人であると考える人がたいへん多い。言い換えれば、日系人に自分自身を含めていない場合が多い。その一方で、日系人がどれくらいいるかと尋ねられれば、一世を含めて数えることが多く、その時点で話は矛盾してくる。 そもそも日系人と言う言葉はいつ頃から使われるようになったのか。記録を辿ると、どうやら戦後のようだ。アメリカの北米新報社『紐育便覧』1948年や、ブラジルのグラフヰカ・ブラジレイラ社『移民四十年史』1949年がそれであり、おそらく印刷物に現れる言葉としては最初である。「日系」という表記であれば、アメリカでは「日系市民」(北米時事社『北米年鑑』1928年)、ブラジルでは「日系伯人」(伯剌西爾時報社『伯剌西爾年鑑』1933年)という表現が日本語新聞の年鑑に現れる。しかし、「日系人」という表現は、戦前の出版物には見当たらない。 1950年代以降は、「日…

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移民研究との出会い

移民研究との出会いには本当に感謝している。そのきっかけは二つあったと思う。一つは大学でのすばらしい講義、そしてブラジルでの生活体験である。 1978年、上智大学ポルトガル語学科に入学すると、ポルトガル語やブラジルについて学んだほか、その頃上智にいらした加藤周一、金田一春彦、鶴見和子という先生方の講義に接する機会を得た。日本文化の特徴や日本語の面白さ、そして比較研究の奥深さに、目を開かれる貴重な体験だった。 とくに鶴見和子先生には、大教室での講義のほかゼミでも薫陶を受け、いろいろなことを学ばせていただいた。大教室で講義をなさる際も、黙って途中退席しようとする女子学生を容赦なく注意された。試験では自分で書き留めたノートならば持ち込み可とし、コピーや他人からの借用物は不可とされた。 鶴見ゼミには社会人や他大学学生も自由に参加して、たいへん活気があった。自宅にゼミ生をお招き下さり、自ら台所に立ちご尊父のお話をされることもあった。比較社会学の講義では、内発的発展論とともに先生の研究テーマであった移民研究の話が、「チンジマリ考」をはじめとしてたいへん興味深く、強く印象に残っている。移民を世界のなかの日本人、世界市民として捉えた話が新鮮だった。 人の話をよく聞いて議論し、自分の考えをまとめ、答えを見出していく学問の面白さと、比較することの意味を体得していった。専門にする言語をマスターし…

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