ディスカバー・ニッケイ

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中村 茂生

(なかむら・しげお)


立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 


この執筆者によるストーリー

ブラジル国、ニッポン村だより
日本人移住地の話(1)ーどっちを向いても日本人

2007年6月21日 • 中村 茂生

「きょう町で外人をみたわ!」 小学生だったTAさんは、ある日学校から帰るなり息せき切っておかあさんにそう報告した。TAさん、もう80歳は越えているはずだから、そんなこ とがあっても不思議はない。地方の県庁所在地に暮らしていた私にとって、たまに見かける外国人が目を離せなくなるほど珍しい存在だったのもやはり小学校の 低学年の頃だった。その私の年齢がTAさんのおよそ半分でしかないことを思えば、むしろその当時ならだれでもが経験するようなことだったろう・・・日本で だったら。 も…

ブラジル国、ニッポン村だより
サンパウロ州の牧草地の広さとその理由

2007年5月4日 • 中村 茂生

その気になればすぐに海岸線まで出られる土地に長く住んできたので、サンパウロ州内陸部の、海まで600キロはあろうかという町で暮らすことが、自 分の気持ちにいったいどんな影響を及ぼすものだろうという興味があった。たとえば海が懐かしくてうずうずし、いてもたってもいられなくなるとか。 しかし実際には、なんとなくおさまりがよくて、たまに「いやあ、海が見たいですねえ」などと言ってはみたもののなんということもなかった それでも、子供の頃から頭に焼き付いたいろんな海の風景があるせいだろう…

ブラジル国、ニッポン村だより
大宅壮一の「名言」をめぐって

2007年3月29日 • 中村 茂生

大宅壮一というジャーナリストがいた。昭和を代表するジャーナリストのひとりと言ってよいと思うが、政治から社会風俗まで広範な仕事に携わってい て、耳にした人の多くが、なるほどうまいこと言う、と唸るような、物事の本質を的確に捉えた名言をいくつも残した人だ。毒舌家、という評価もある。 たしか、「明治を見たければブラジルへ行け」だったと思う。その大宅壮一が戦後ブラジルの日系社会を訪れた時に発したという言葉だ。戦後とはいってもずい ぶん古い話になるはずだが、日系社会のなかにはまだこの言…

ブラジル国、ニッポン村だより
カデイアと日本人移民

2007年3月1日 • 中村 茂生

第二次世界大戦中北米の日本人移民が、収容所生活を強いられたことは広く知られている。移民先国と祖国が敵同士となったのはブラジル日本人移民も同 じだ。ブラジルには収容所こそなかったが、やはり敵国人としての扱いは受けた。戦争中から戦後の一時期まで、ちょっとしたことでカデイア(監獄)行きとい うことも珍しくなかった。 戦争中のある時期、日本語は禁止されていた。 日本語禁止というのは、日本語をしゃべってはいけないということだ。しゃべってはいけない、というのは、しゃべったら注意や譴責を…

ブラジル国、ニッポン村だより
ワラと松と竹-ブラジル日系社会で新年を迎える

2007年2月1日 • 中村 茂生

サンパウロから500キロ離れた小さな町。12月にはいると、いつも7時には早々閉めてしまう商店が遅くまでやるようになる。 街の中心の辻々には、財政が厳しいなか、市役所が提供したという、小さいながらも凝ったデザインのクリスマスツリーが配置されている。 通りを横切って幾重にも渡された点滅灯の線と電飾の数々、巨大なスピーカーから流れてくる地元ラジオ放送の大音響のなか、家族やカップル、友人同士でそぞろ歩く大勢の人を眺めていると、ここが人口わずか2万ちょっとの町だとは思えないほどのにぎ…

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