ディスカバー・ニッケイ

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中村 茂生

(なかむら・しげお)


立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 


この執筆者によるストーリー

ブラジル国、ニッポン村だより
笠戸丸は「明治の精神」をのせて

2008年6月26日 • 中村 茂生

「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました」(『こころ』より) 日本の高校生で、現代国語の時間にこの作品を読んだひとは多いと思う。もちろん全部ではなく、上の一節を含む「先生の遺書」の部分だけだ。どんな文 学作品でも教材になってしまうと退屈なものになる。私など、ほとんど一学期間かけてだらだらと…

ブラジル国、ニッポン村だより
笠戸丸移民について考える

2008年5月15日 • 中村 茂生

100年前の今頃、移民781人の契約移民と自由渡航者たちを乗せた笠戸丸は洋上にあった。サントス港に到着する6月18日まで、神戸港を出てから60日の航海である。 この笠戸丸移民の集合写真、というものがありそうでない。私が知っていたのは、ずっと鹿児島県出身者が神戸の神社で撮影したという一枚の写真だけだった。だけだった、と過去形にできるのは、つい最近、別の一枚を見る機会があったからで、その一枚をここに掲げる。笠戸丸甲板上に勢揃いした移民たち の、おそらく出港前の記念撮影である。…

ブラジル国、ニッポン村だより
「移民の父」とその子供たち

2008年4月3日 • 中村 茂生

100年の歴史を持つブラジル日本移民には、「移民の父」と呼ばれる存在がいる。ハワイ移民の父とかペルー移民の父というのは聞いたことがないがないから、「父」がいるのはブラジル日本移民だけかもしれない。 なるほど、ブラジルぐらい遠いと、受け入れ先を準備したり、移民船を調達したり、つまり誰かが言い出しっぺになって事業を立ち上げないことには始まらないわけで、そういったところで「父」も生まれる余地があるのだろう。 一連の仕事を手がけ、「移民の父」となったのは、水野龍という人物である。 …

ブラジル国、ニッポン村だより
出稼ぎにまつわる話

2008年3月13日 • 中村 茂生

2008年にちょうど100年になるブラジル日本移民史を、まずおおざっぱに頭に入れるために知っておいてよい数字は、約25万、約150万のふたつだろうか。 約25万というのはブラジルに移民した日本人の総数だ。戦前と戦後に分けると約19万人と約6万人ということになる。 約150万というのも人の数で、こちらは現在ブラジルにいる日系人の人口ということになっている。ということになっているというのは、しっかりとし た調査が行われていないからだ。150万人というのは日本で言えば山口県の人口…

ブラジル国、ニッポン村だより
2008年正月 三番叟の復活上演

2008年1月17日 • 中村 茂生

ここまで何回かにわたって、ブラジルのある町の歴史にかんする話題を取り上げてきた。 原野に突如日本人移住地として現れたこの町は、今年、開拓からひとつの区切りになる年を迎える。ひとつの町の歴史としては長いとはいえない、ちょうど人が 平均的に生きる程度の年月というところだろうか。記念の年を、その歴史の最初から立ち会っている移民一世、その子供たち、その子供たち、その子供たち、つ まりおそらく四世あたりまでを含め、日系人皆でお祝いしようとさまざまな計画が立てられている。 2008年の…

ブラジル国、ニッポン村だより
移住地に来た理由

2007年12月7日 • 中村 茂生

移住地に暮らした人びとが、そもそも日本を出ることになった理由はさまざまだ。 ブラジルに来ることを決めたいきさつを話してくれるKYさんの脳裏には、ある映像が鮮明に蘇るようだ。 KYさんの故郷は山の中にあった。村人の暮らしは山とともにあるといってよいようなところだった。KYさん一家の生業も山仕事だったから、仕事をする年齢になったら山に入るものだと思いながら成長した。そのことに抵抗があるわけでもなく、疑問を感じたこともなかった。 ここでこのまま大人になるのはなんとも気がすすまない…

ブラジル国、ニッポン村だより
ブラジルのなかの日本人移住地のなかのブラジル人

2007年10月18日 • 中村 茂生

いくら日本人移住地だとはいってもブラジル人が一切住んでいなかったわけではない。少ないときでも人口の1割程度はブラジル人が占めていた。とはいっても、それはやはり異常な数字には違いないが。 ブラジルでは、いつも北の方からサンパウロ方面に向けた労働者の移動があるようだ。それは時々、はっきりした理由があって大きな流れになるが、どうやらサンパウロに行けばいいことがあるらしい、という程度の漠然とした期待感が北の人たちにはわけもたれているらしい。 ATさんが子供のころ、一家はやはり北の町…

ブラジル国、ニッポン村だより
移住地野球の風景

2007年9月27日 • 中村 茂生

ブラジルといえばサッカー(ブラジルではフチボーラという)だ、という印象を多くの日本人は持っているだろう。ブラジル人は一人の例外もなくサッ カーをやっていると信じられていて、路地裏でぼろぼろになったボールを追いかける子供たちのいる風景が自然と頭に浮かんでくる。もちろん実際のブラジルで は、サッカー以外のスポーツも盛んで、バレーボールやハンドボール人口もそうとうなものだ。 日系人はあまりサッカーをやらないグループのようだ。「サッカーとサンバはジャポネスにはやらせるな」などという…

ブラジル国、ニッポン村だより
日本人移住地の話(3)― ブラジル人教師と生徒たち

2007年8月30日 • 中村 茂生

学校生活にまつわる話にはまだいろいろ面白いものがある。前回で終わりにするには惜しいのでもう少し続けよう。 日本の尋常小学校教育だけが行われていた時代が幕を閉じると、州政府からようやく正式に教師たちが派遣され、ブラジルの教育がはじまった。その後ブ ラジルのナショナリズム運動が盛んになって、尋常小学校教育どころか日本語を使った教育は一切できなくなるわけだが、それまでの一時期は尋常小学校とブラ ジルの小学校が共存することになった。移住地の子供たちは、ふたつの学校に通わなければなら…

ブラジル国、ニッポン村だより
日本人移住地の話(2)― 学校生活

2007年7月26日 • 中村 茂生

前回集合写真を紹介した移住地の小学校は、移住地に最初の住民がやってきてからほんの数年で完成している(日本人移住地の話(1)―どっちを向いても日本人より)。当時としては壮麗といってもよいぐらいの立派な建物で、ちょうど向いあわせの位置に建てられた病院と並んで、移住地のシンボルになった。 この学校で行われたのは、「日本の尋常小学校と同じ教育」だったと移民の歴史の本には書かれている。 実際、授業の大半は、日本人教師が、日本語を使って、日本から取り寄せた教科書で教えていた。ポルトガル…

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