ディスカバー・ニッケイ

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マルタ・マレンコ

(Marta Marenco)


マルタ・マレンコ氏は、1945年に7人兄姉の末っ子として父タツゾウと母エステルのもとに生まれた。父を9歳の時にんなくした。母は、イタリアのジェノバ出身の子孫。アルゼンチンの北部で育ち、後に職を求めてブエノスアイレスに転住し、それぞれがブエノスアイレスで家族を築いた。夫はアルゼンチン人の獣医で、すばらしい二人の息子はメキシコに住んでいる。現在リタイヤして年金生活者の人生をエンジョイしている。

(2015年9月 更新)


この執筆者によるストーリー

ニッケイ物語 8—ニッケイ・ヒーロー:私たちの模範となり、誇りを与えてくれる人
私のアイドルの簡単な話

2019年5月27日 • マルタ・マレンコ

私が知念ジョージに出会ったのは、思春期が始まった頃でした。彼は家族がアルゼンチンに向かう船の中で生まれましたが、その船はすでにアルゼンチン領土内を航行しており、そのためにアルゼンチン国民であると宣言されました。彼の父親は、沖縄出身の日系社会の著名なメンバーである知念茂雄で、非常に強力な社会的、政治的つながりを持ち、同協会の会長となった。彼の熱心な社交生活は彼を国史の人物と結びつけ、ジョージにカトリックの洗礼を授けさえし、当時この国の最高権威であったフアン・ドミンゴ・ペロン将…

ニッケイ物語 7—ニッケイ・ルーツ:私たちの文化の足跡をたどる
中華料理

2018年7月2日 • マルタ・マレンコ

私の父は、20 世紀の最初の 10 年に東からアルゼンチンにやって来ました。当時、日本は現在のような世界大国として目立った存在ではありませんでした。彼は戦争が絶えない国から逃れてきた貧しい移民であり、下層階級を無視する封建領主に支配された拡張主義者だった。それが、彼が寛大で、当時でさえ移民に対して非常に寛容だった私たちの国に自発的に恋に落ちた理由かもしれません。父がイタリア系の母と結婚したとき、二人とも私たちの毎日の食事に独自の味をもたらしました。母がこねたものほどおいしい…

2016年6月8日 • マルタ・マレンコ

10歳のとき、世界は家の中で回っていました...私はいつも、自分の人生で起こったことはすべて、地球上のすべての家で起こっていることだと想像していました。人々は同じ場面で笑い、同じ音楽が好き、同じような状況で悲しくなり、私たちの食卓にあるものと同じ食べ物を食べることさえあると私は確信していました...私の家の特殊性を考慮しても、私たちはアルゼンチンの町に住んでいて、父は日本の仏教徒で、母は西洋のカトリック教徒でした。私の家で最も重要な食事は夕食だったことを覚えています。それ…

イエス・キリストと仏陀

2016年1月15日 • マルタ・マレンコ

私は兄弟姉妹の多い大家族の末っ子だったので、生まれたとき両親に孫がいてもおかしくない状態でした。人生経験が豊富で、とても穏やかな両親に育てられたことは、私にとってプラスでした。兄や姉たちとはかなり年が離れていたので、わたしにとって彼らは親のような存在でした。私は多くの大人に囲まれ、みんなに忍耐強く見守られて成長しました。それに、1950年代頃、当時の中年は今よりかなり年老いていたと思います。その時代は生活も質素で、シンプルなものが多く、服装も地味なものが多かったのです。…

ニッケイ物語 4—ニッケイ・ファミリー: 記憶、伝統、家族観
父の冒険

2015年9月15日 • マルタ・マレンコ

父タツゾウ・トミヒサ(Tatsuzo Tomohisa)は、毎日午後になると家の前の歩道に出て入り口に座るのが日課でした。静かに道路を眺めていると、近所の子供たちが待ち構えていたかのように寄ってくるのでした。子供が好きだった父はみんなを嬉しそうに笑顔で迎え、いろいろな話を語り聞かせました。父の話を楽しみにしていた子供たちは飽きることなく夢中になってそれを聞いていました。 父の故郷はとても遠く、私たちはあの広い海(太平洋)をどのように渡ったのか興味津々でした。私たちがそ…

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