ディスカバー・ニッケイ

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新舛 育雄

(しんます・いくお)

@IkuoShinmasu

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)


この執筆者によるストーリー

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第14回(後編) 二世の進学した大学

2023年7月7日 • 新舛 育雄

第14回(前編)を読む >> ワシントン大学と日本人社会との繋がり 「華大の女学生が日本人街を見学」(1938年8月17日号) 「華大夏季講座の女学生35名が華大YMCAの主催で日本人街を見学した。一行は女学生と言っても夏季講義を受けるハイスクールや小学校の先生達も来り、白髪の老嬢さへ見受けられた。 一行は先ず国語学校を覗き、窪田氏の日本庭園でワンダフルを連発、日蓮教会で奇異の瞳を輝かせ、日本人聖公会に立ち寄ってから、本社を来訪、工場を一巡して奇問を連発、更に回…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第14回(前編) 二世の進学した大学

2023年7月6日 • 新舛 育雄

前回は二世の二重国籍問題と結婚問題についてお伝えしたが、今回は二世の進学した大学に関する記事1を紹介したい。多くの二世達はアメリカの高等教育機関である大学に進学し、最先端の知識や技術を学び、日系人社会への貢献を目指した。 ワシントン大学への入学 ワシントン大学の歴史についてワシントン大学在学の岡丸正二が1939年1月1日号へ寄稿した「華大(ワシントン大学)と日本人学生」では、次のように掲載されている。 「華大は1861年、東京帝大設置に先立つこと四分の一世紀の…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第13回(後編) 二世の二重国籍と結婚問題

2023年6月12日 • 新舛 育雄

第13回(前編)を読む>> 在米二世への見方 在米二世が日本やアメリカからどう見られていたか、また反対に在米二世が日本をどのように見ていたかを語った興味深い記事を紹介したい。 1.日本の女子学生の見た在米二世 『彼女の見た二世』—在米邦人の祖国認識それは明治大正物です—」(1935年10月4日号) 「今夏、ポートランドで開かれた日米学生大会へ日本の学生代表として渡米した月本峰子嬢の在米二世に対する感想と云ふのが下のように伝えられて居…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第13回(前編) 二世の二重国籍と結婚問題

2023年6月11日 • 新舛 育雄

前回は国語学校についてお伝えしたが今回は第二世が成人していく中で起こった二重国籍問題と結婚問題についての記事についてお伝えしたい。 二世が誕生した時に、米国へ出生届を提出すると同時に領事館を通して日本へ出生手続きを行い、多くの二世が二重国籍者となった。二世は成人となり、どちらの国の国籍を持つべきか、又どちらの国の人と結婚するかという切実な問題に迫られた。 二世の出生届け  二世の数が増大していった1919年頃の出生届けについての記事があった。 「米国出生児童の入…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第12回(後編)国語学校での2世教育

2023年4月27日 • 新舛 育雄

第12回(前編)を読む >> 教科書問題 『北米時事』の1919年2月13日号1の記事には、国語学校で使う教科書について話し合いがもたれたことが記されている。 「シアトル国語学校にては兼て教科書編纂の議あり。学務委員会にてしばしば協議の結果当ワシントン州各地国語学校教師並びに維持会役員、学務委員等の意見を徹して最後の決定をなし編纂に決せば協同事に当ることゝなりたるより、一昨日実業倶楽部に於て州内15校当事者会を催したるが、出席者は8校を代表せる。 植村(スポ―ケ…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第12回(前編)国語学校での2世教育

2023年4月26日 • 新舛 育雄

第11回にお伝えした写真結婚から多くの日系2世が誕生したことで、アメリカで生まれた子供たちの日本語教育がシアトル日本人社会での課題になった。今回は、2世の日本語教育のために創立されたシアトル国語学校についてお伝えしたい。 シアトル国語学校創立 シアトル日本人会は1902年に、北米最初の日本語学校としてシアトル日本人会付属小学校を創立した。創立当時、生徒数は4人、教師1名だった。1908年にシアトル国語学校へ名称変更した。 校舎は日本人会の建物内にあり、その後にシアトル…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第11回(後編) 写真結婚の隆盛

2023年1月6日 • 新舛 育雄

第11回(前編)を読む >> 日本人の高い出生率 前掲の1939年1月1日号、中村赤蜻蛉の「メーン街盛衰記」の中で出生者数が激増した頃の様子をシアトル帝国領事館による同館領域内在住日本人についての数字を元に次のように語っている。 「1910年頃から約10年間は産婆成金の露出した時代で月々に生まれる同胞子女の数は素晴らしい数に上った。統計によると1910年の出生総数は267名であったものは、逐年増加して376名,461名,402名,477名,509名-といふ風に上が…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第11回(前編) 写真結婚の隆盛

2023年1月5日 • 新舛 育雄

前回は『北米時事』の歴史をテーマにお伝えした。今回は、1910年頃から隆盛を極めた写真結婚について、1918年から1920年頃の記事を紹介したい。 1900年に入った頃から、アメリカで日本人に対しての排日運動が激しくなった。日本政府はこれに対応して、1908年に日米紳士協約を米国と締結した。この協約によって日本人の米国移民が制限され、既に米国に移住していた日本人労働者の一時帰国も難しくなると、会うことなく交換した写真だけで結婚を決める「写真花嫁」のアメリカへの呼び寄せが激…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第10回(その5)『北米時事』の歴史—日米大戦突入時での記事と最後の発行

2022年12月7日 • 新舛 育雄

前回は『北米時事』での有馬純義の日本人会長の記事と新聞記者としての記事を紹介したが、今回は日米大戦突入時での記事と最後の発行についてお伝えしたい。 日米大戦突入 1941年12月7日に真珠湾攻撃が勃発し、シアトルに住む日本人社会に激震が襲った。即日に、帰国した兄を継いで編集長を務めていた有馬純雄(すみお)がFBIに自宅から連行され、また会社の資金が凍結された。それでも、残された編集部員の日比谷隆美と狩野輝光が中心となり、『北米時事』は全米邦字新聞で唯一、翌日8日付の新聞…

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史
第10回(その4)『北米時事』の歴史—有馬純義

2022年11月30日 • 新舛 育雄

前回は『北米時事』女性社員の投稿記事と5000号記念の時の記事及び購読料の値上げ記事についてお伝えしたが今回は日本人会会長であり、新聞記者でもある有馬純義が書いた記事を紹介したい。  日本人会長としての有馬純義 有馬純清(すみきよ)が社長を退いた後、長男の有馬純義(すみよし)が会社経営を継いだ。同氏は、1932年に北米日本人会会長となり、シアトル日本人コミュニティーのためにも活躍した。 1938年3月3日には、日商臨時参事員会選挙で再び日本人会会長として選任…

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