深沢 正雪

(ふかさわ・まさゆき)

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その1

「ニッケイ新聞」の2021年11月18日号2面において、高木ラウル社長が「12月18日号をもって廃刊する」と公表した。残念なことだが、あと1カ月で本紙(ニッケイ新聞)は幕を閉じる。 ノロエステ連合日伯文化協会の元会長、白石一資さんにそれに関するコメントを求めると、「新聞がなくなると本当に困る。毎日読まないと、日系団体のことが分からなくなるし、日本語を忘れてしまう」と邦字紙の価値を再認識させてくれた。 白石さんは1935年6月11日、サンパウロ州ガララペス生まれの二世だ。 さらに「父も邦字紙を読んでいた。ボクが日本語学校で12の巻きを終えたとき、もうそれ以上先を教える教科書がなくなってしまった。父にそれを言うと、『おまえも新聞を読め。最初は分からないところもあるだろうから、それは飛ばして、とにかく毎日読め。そうすればだんだん分かるようになる』と言われた」とのエピソードを披露した。 白石さんは、父の言う通りにして新聞を読めるようになった。以来、欠かさずに邦字紙を読んでいるという。 40年間、邦字紙一筋に働いてきたラウル社長 ラウル社長は「私が40年間、邦字紙で働いてこれたのは、愛読者のおかげ。ここまで続けてこられたことに、心から感謝したい」と繰り返す。 ラウル社長は1946年1月、聖市生まれの75歳。カトリック大学法科を卒業して、西功法律事務所に務めていた時、同じビ…

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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その2

その1を読む >> 元年者の前から現地に住んでいた日本人も 『ハワイ移民史』を見てオヤッと興味深く思ったのは、明治元年(1868年)にハワイに渡った最初の日本人移民〝元年者〟がホノルルに着いたとき、すでに日本人が3人現地で暮らしていたという記述だ。 元年者150人の一人、牧野富三郎が無事にホノルル港に到着したことを告げる手紙が12頁に転載されており、《酔っ払いや乱暴を働く人間もおらず、平穏で幸せを感じている。到着した時には日本人が3人いた。神奈川県出身の仙太郎が残り、通訳や相談にも乗ってくれて「地獄で仏」に会ったようだ》と書き送っている。 笠戸丸移民の2年前に、〝実験台〟として渡伯した鈴木南樹(鈴木貞次郎)の体験談を書いた『伯国日本移民の草分』(1932年)には、彼がペトロポリスの公使館を最初に訪ねた時に、すでに現地在住日本人として出入りしていた二人が「伯国に於ける日本人の元祖」として紹介されている。 一人はやはりハワイ移民の転住者の「秋葉じいさん」だ。《ハワイから英国船に乗ってサントスに上陸し、転々として遂にペトロポリスに来た。つい先頃迄公使館の料理人をして居たのであるが、その頃は頭の上にお菓子箱を載せて、チャルメラのような音をたてる笛を吹きながら、大道を売って歩いて居た》(PDF版、16頁)。これが1906年の話だ。 さらに《秋葉さんははっきりと自分の歳も知らない…

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ハワイ日本移民史とブラジルの繋がり - その1

突然、日本の友人から『ハワイ日本人移民史 1868~1952』(ハワイ移民史料館仁保島村 館長 川崎壽、2020年刊、3800円、以下『ハワイ移民史』と略)が郵送されてきた。 日伯間の郵便業務は昨年4月から停止されていると思ったから、ビックリした。一部は業務を再開しているようだ。とはいえ2月にSAL便で出して6月末着、4カ月間だから通常の2倍ぐらいかかっている。 「ハワイ移民史料館仁保島村」という存在自体、初めて知った。広島県広島市南区仁保にある私設資料館だ。入場料は無料だが、メールなどで事前連絡が必要とある。 送ってくれた友人の手紙には《この本には館長の移民に対する溢れんばかりの情熱が凝縮されています》とあるが、その通りだ。A4判、全247頁には図版が満載されており、舌を巻いた。 館長の本業は建築業らしいが、忙しい本業の傍らコツコツと長い時間をかけて移民資料を集め、自分でこの資料館を建て、その収蔵品を織り込みながらこの移民史を編纂したようだ。 川崎館長が書いた序文には、ハワイとの関わりが紹介されている。姉がハワイの戦前移民だった関係で、真珠湾攻撃後、カリフォルニア州にあった最も反米的だった移民が集められた強制収容所に家族まるごと送り込まれたようだ。 いわく《私の義兄(従兄)は極めて反米的であるとしてハワイで逮捕され、アメリカ本土のツールレイク収容所に抑留されまし…

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自分史に見るブラジル戦後移民と戦争の深い関係

現在世界最大200万人の日系社会を誇るブラジルも、最初は日本人移民25万人から始まった。戦後移民はそのうちの約5万人を占める。 戦後派の最大の特徴は「戦争経験者」「元満州移民や満州生れ」が多いことだ。調査がないので実数は分からないが、邦字紙記者25年の実感としてはこうだ。戦後移民の半分は数年で日本に帰国したが、残った人の4分の1から3分の1ぐらいは満州経験者ではないかと思う。 満州から本土に引揚げてしばらく生活したが、大陸で生活した経験からすると、日本の国土では何かと「狭苦しさ」「窮屈さ」「食糧難のひどさ」などから、再び外地に出たいという希望が湧き、当時数少ない移住再開国だったブラジルに大挙して渡った部分があると想像される。 だから、移民の書く自分史には戦争体験が多い。たとえば2005年に日系社会の文芸賞「コロニア文芸賞」を受賞した自分史『草原』はその代表格だ。 著者は野澤今朝之さん(けさゆき、故人)で、幼い頃を過ごした北満州での厳しい開拓の生活や家族の死、日本へ引き上げてからも続いた戦後の不幸や、コチア青年として1957年に来伯してからの様子、デカセギ時代など激動の人生が素朴な言葉で淡々と書かれている。 ニッケイ新聞にも2007年に全文転載し、好評を得た。当時の神田大民デスクは記者コラムの中で、《元陸軍の将校だったという八十二歳は、ぜひ野澤さんの所に香典を届けたい…

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16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒 - その2

その1を読む >> 亜国日本人青年の所有者も新キリスト教徒 振り返って、コラム子の連載《日本人奴隷の謎を追って》で主題にした、1596年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年の所有者も「新キリスト教徒」だった可能性が高い。 この件を最初に詳しく書いたアルゼンチン移民の大城徹三氏は著書『コルドバ』で、「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(15頁)と書いている。 大城氏が〝奴隷商人〟と表現するポルトガル人商人の名は「ディエゴ・ロッペス・デ・リスボア」(Diego Lópes de Lisboa)。調べてみると、ディエゴはかなりの有名人だった。 スペインでは1478年に異端審問が開始され、1492年にはユダヤ教徒が追放されるにいたった。それに続いてポルトガルでも1497年に強制改宗令、1536年に異端審問が始まり、新キリスト教徒が急増することになる。 『ポルトガル史』(アルベール―アラン・ブールドン、白水社、1979年、59~60頁)には《教皇庁の黙認の意図にもかかわらず、国家の宗教裁判所が一五三六年に…

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