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デイ 多佳子

(Takako Day)

@takako70

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)


この執筆者によるストーリー

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第2章(パート1):シカゴの日本のアクロバットと芸能人 - はじめに

2022年9月25日 • デイ 多佳子

『シカゴ百科事典』によると、「中西部の主要都市としてのシカゴの地位は、あらゆるツアー公演の旅程に欠かせない立ち寄り場所であると同時に、活気ある地元の演劇コミュニティの本拠地でもある」とのことです。1これは、日本人芸能人にとってシカゴが何を象徴し、なぜ彼らがそこに住んでいたのかをまさに説明しています。実際、シカゴに足を踏み入れた最初の日本人は、大陸横断鉄道が完成する1869年以前にもここにやってきたアクロバット一座のメンバーでした。 1860 年代半ば、さまざまな日本の芸能一…

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戦前シカゴの日本人
シカゴの宣教師たちと日本人 ― オンガワ道太郎

2022年9月14日 • デイ 多佳子

ハリー・北野は著書『Generations and Identity: The Japanese American』の中で、「日本に行った初期キリスト教宣教師たちの伝道はうまくいかず、むしろ渡米してきた日本人移民たちが彼らにとってよき伝道対象となった」と書いている。が、北野の分析は、シカゴの日本人にはあまりあてはまらない。むしろ日本での伝道が成功したからこそ、日本人がシカゴにやってくるようになったといわんばかりだ。その一人がオンガワ道太郎こと小川道太郎である。  小川…

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第 1 章 (第 7 部): 日本の庭園デザイナー、家事労働者、そして彼らの「親日派」雇用主 - リバーバンクの日本人庭師、小林進と料理人、ジョージ・マツモト・ジュンジ

2022年7月17日 • デイ 多佳子

第1章(パート6)を読む>>大塚太郎がリバーバンクを去った後、オスカー・ススム・コバヤシという別の日本人庭師が、1910年頃にジョージ・ファビアンのために大塚が造った庭の維持管理を引き継いだ。小林は1917年頃、シカゴの日本人YMCAで大塚と出会った。1 当時、彼はシカゴで仕事を探していた。その後、大塚と小林は親しくなり、シカゴで大塚があまり用事がなかった1923年から24年の冬、小林は数週間、フロリダの自宅に大塚を泊めてくれた。2小林は1892年3月に島根県で生まれ、19…

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第 1 章 (第 6 部): 日本の庭園デザイナー、家事労働者、そして「親日派」の雇用主 - シカゴからニューヨークへ移った大塚太郎

2022年7月10日 • デイ 多佳子

第1章(パート5)を読む>> 1921年、大塚は丸山の次の事業移転に続いてノースミシガンアベニュー216番地に移転したが、 2新しい場所は「(サウスミシガンアベニュー300番地よりも)あまり望ましい場所ではなかった」 3さらに、丸山は商号を東洋輸入会社に変更した。ベス・コーディによると、「東洋美術店はもはや高級美術品だけでなく、一般的な装飾品や家庭用品も扱っていた」からである。4 丸山の事業が衰退し始めると、大塚は生き残るための別の方法を考えなければならなくなり、フロリダに…

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第1章(第5部):日本の庭園デザイナー、家事労働者、そして彼らの「親日派」雇用主—日本庭園デザイナー大塚太郎

2022年7月3日 • デイ 多佳子

第1章(パート4)を読む>> 大塚太郎は1868年に高知県で生まれ、1880年代の日本で自由と公民権を主張した自由主義政治家板垣退助の活動家であり同志であったと噂されている。1 30歳のとき、彼は妻を日本に残し、 1897年12月21日にシアトルに到着した。彼は職業を「鉱業」と記し、米国での連絡先をワシントン州タコマの「T. 片岡」と記している。3この「T. 片岡」とは、高知出身の片岡常次郎のことで、1888 年にシアトルに来ていた。この開拓事業は、伊藤米次郎という男が始め…

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第 1 章 (パート 4): 日本の庭園デザイナー、家事労働者、そして彼らの「親日派」雇用主 - イリノイ州ジュネーバの「名誉日本領事」ジョージ ファビアン

2022年6月26日 • デイ 多佳子

第1章(パート3)を読む>> 20世紀初頭、シカゴの西40マイル、フォックス川沿いの町ジュネーブに、もう一人の「著名な資本家」 1がいた。彼は自分の別荘で日本人家政婦を雇用していた。彼の名前はジョージ・ファビアンで、一説によると、1897年にシカゴに日本領事館が設立される以前は「名誉日本領事」 2とみなされていたという。ファビアンは日本の著名人をもてなすことで知られ、小村寿太郎男爵3や、1899年から1902年まで、また1903年から1906年までシカゴの日本領事を務めた…

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第 1 章 (第 3 部): 日本の庭園設計者、家事労働者、そして彼らの「親日派」雇用主 - シカゴの浜野寅次郎と菊、ジュリアス・ローゼンワルド

2022年6月19日 • デイ 多佳子

第1章(パート2)を読む>> シカゴで最も幸運で成功した日本人家政婦は、シアーズ・ローバック・アンド・カンパニーの創立者の一人であるジュリアス・ローゼンワルドのもとで20年間働いた浜野寅次郎だったかもしれない。1910年の国勢調査によると、エリス通り4901番地にあるローゼンワルドの邸宅には、独身の日本人男性が2人住んでいた。一人は28歳の執事の「キク」こと浜野寅次郎で、もう一人は27歳の日本人家政婦のサクライン・ルイスで、ノルウェー人2人、スウェーデン人2人の召使とともに…

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第1章(第2部):日本の庭園設計者、家事労働者、そして彼らの「親日派」雇用主:日本人使用人に対する人気と批判

2022年6月12日 • デイ 多佳子

第1章(パート1)を読む>>当時のサービス産業の全体像を見ると、適切な資格を持つ日本人移民は「南部の黒人使用人の古い世代の素晴らしい記録」に匹敵すると報告され、勤勉な北部の若い世代のアフリカ系アメリカ人と競争する立場に置かれていたことがわかります。同時に、アメリカ人の「黒人か白人か」という二極化した社会では、日本人は白人と平等に扱われていませんでした。シカゴ・ディフェンダーは、競争に対する不満を次のように表明した。 「…東洋人はホテル業界に多く参入しており、鉄道会社ではポー…

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イリノイ州の知られざる日本人英雄たち
第1章(第1部):日本の庭園デザイナー、家事労働者、そして彼らの「親日派」雇用主 - はじめに

2022年6月5日 • デイ 多佳子

1880 年のイリノイ州国勢調査に記録された最初の日本人家政婦は、イリノイ州ガリーナで第 18代アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントに仕えた 21 歳の独身男性、J. ヤナダでした。1 グラントは、 1879年に日本を訪れた際に日本政府からグラントに仕えるよう任命されたヤナダに非常に満足しており、 2 ある友人に次のように報告しています。「私は、すべての面倒を見てくれる私の小さな日本人と一緒に旅行することに慣れてしまっているので、前回の訪問では彼がいなかったので、駅に荷…

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シカゴの日本人キリスト教徒
加藤勝次:精神的救世主から医療従事者へ - パート 4

2022年3月13日 • デイ 多佳子

パート3を読む>> 1917 年の日本訪問の際、加藤が文部次官の田所と会談し、田所が加藤に、二世 (アメリカ生まれの日系二世) には移民の親によって日本語が教えられていることを望んでおり、日本語教育は外務省が管理すべきだと考えていると伝えたことは、すでに知られている。1加藤は実際に外務省と連絡を取り、両国の国際関係をメッセージとする新しい雑誌の発行を依頼されたのだろうか。それとも、彼の個人的な経験から、日本がアメリカで誤解されていることを痛感し、出版業の関心をこのように変え…

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