ブロケット ゆり

(Yuri Brockett )

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(6)

第5章(5)を読む >> 4. 子どもにとっての痛み 収容体験が子どもにあたえた影響は、一人一人異なりますが、年齢、それまでの生活環境、サポートグループの有無、親の精神的安定度等によって大きく違ってくるようです。日系アメリカ人であることだけで、収容所にいれられたわけですから、日系であることを恥じたり、日系であることに罪の意識をもつことになりました。 しかし、幼少期を収容所で過ごした多くの人は「楽しかった」、「一日中野球をしていて楽しかった」と言います。親が子どもを守ってくれていましたし、子どもは、愛してくれる人がいれば、どんな所でも逞しく生きて行ける力をもっているようです。ベーコンも、「僕らのようなティーンエージャーにとって、収容所の生活は楽しかった。周りは日本人ばかりで、友達はたくさん出来たから。収容所に入る前は農場にいたので、家と家ははなれていて、野球をしようにもすぐに仲間が集まれる環境ではなかったけど、ハートマウンテンではすぐに野球もできたし、フットボールも、ハイキングだってすることができた。お金や物はなくても、いろんな遊びができて、すごく楽しかった。……でも、収容所での生活が子どもにとって良かったと言っているのではなく、ただ不当に行われた状況を受け入れ、その状況を最大限に生かしたということです」と。1 その一方、いまだにその時のことを話…

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(5)

第5章(4)を読む >> 公聴会———1981年 7月から12月にかけてアメリカ各地で開催された公聴会が、シアトルにやって来た時のことです。その頃、マコ・ナカガワの父親は、自らの米寿の祝いに誰を招待するかで頭が一杯だったのですが、この公聴会で証言することは大事なことだと考えて、娘と一緒に参加しました。 父は耳が遠くなっていたので、二人で合図を決めました。ポン、ポン、ポンと父の肩を軽く3回叩くと、「始めて、お父さん。何でも好きな事を話していいよ」という意味です。「お父さんが話おえたら、私がそれを英語に直してから、お父さんの証言を読むからね。分かった?」父は「よし、分かった」と言ってから、椅子に腰掛けました。会場のみんなが落ち着くまで少し待って、父の口元にマイクを近づけて、ポン、ポン、ポンの合図を送りました。すると父は急に「もう、初めていいのかな」と、凄い大きな声でいったものだから、会場から思わず笑いがあがりました。 「来年で88になります。」と父は語り始めました。聞いている委員たちに八十八の意味がつたわるかどうか気になったけど、そんなことにはおかまいなしで「八人の孫に恵まれた」とか「アメリカには一九一三年に参りました」というようなことをあれこれ話し、父からマイクを受け取った私がそれを英語に直し、続いて父の証言を読みました。途中で、のど…

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(4)

第五章(3)を読む >> 3. 沈黙をやぶって———賠償運動   <1970年代から1980年代 > 60年代のアフリカ系アメリカ人の公民権運動とマイノリティ(少数派民族)運動に力を得た日系の若い二世、三世も、大学にアジア研究学部を創設し、アジア系や女性の教官を増やすようにと声をあげはじめます。トパーズ収容所では赤ちゃんだったカシマも、この頃にはゴードン・ヒラバヤシの弟のジムとデモの先頭に立っていたと言います。ある三世の言葉です。 黒人運動がなかったら我々もなかったでしょう。確かにそれを境に、自分が何者なのかわかるようになり、誇りに思い始めたのです。また政治的に戦闘的とさえ言っていいくらいとても攻撃的になり、我々が何なのか、我々は今や立ち上がり、もうこれ以上は許さないということを主張しようとしていたんです。1 この目覚めが、日系社会におこったことをこれ以上黙認してはいられない、収容体験者が苦しんでいる罪や恥の意識を取り去るためにも賠償運動が必要だと、二世、三世を突き動かしたのです。「[賠償運動]は、おとなしい[日系アメリカ人]というステレオタイプの拒絶で、不正があればそれを認識し正す、新たな[日系アメリカ人]の誕生を象徴するものです」2 1970年「戦時中の日系人に対する収容、抑留、公民権及び憲…

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(3)

第五章(2)を読む >> 2. 閉じた記憶をひもとき始めて <1960年後半から> 『マンザナールよ さらば』———ジャンヌ・ワカツキ 「ねぇ、おばさん、僕マンザナーってところで産まれたんだけど、どんなところだったの?」と、唐突に甥っ子に聞かれたの。実家の家族以外の者から聞いたはじめての「マンザナー」だった。そこでキャンプのこと、すごい砂嵐、まずい食事、どんな遊びをしてたか……を話していると、「おばさんたら刑務所にいれられたのに、何でもなかったように話して。強制収容されたことは、どう感じているの?」と。甥っ子にどう感じているのかと聞かれて、あれ以来抑えていた気持ちを、初めて感じることを自分にゆるした途端に、色々な思いがこみあげてきて、わっと泣き出してしまったの。1 この時大学で創造的作文法を教えていたご主人のジェイムス・ヒューストンに、「ジム、家族のために回顧録を書こうと思っているんだけど……」と相談すると、「え、なんの回顧録?」と。「すでに結婚して14、5年たっていたのに、あ、まだあのことは主人にも話していなかったんだ」とその時気づいたそうです。「それは家族のためだけじゃなくて、アメリカ人みんなが読むべき話だ。手伝うよ」とのジェイムスの励ましでうまれたのが『マ…

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(2)

第五章(1)を読む >> もう一つの戦い  数々の手柄をたてたシロー・カシノたち第100歩兵大隊1を含む第442連隊戦闘部隊を前にして、1946年7月15日、トルーマン大統領は、ホワイトハウスの庭で「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」と語りました。第442連隊戦闘部隊はその活動期間と規模からして、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊です。 しかし、これだけの活躍をして帰って来た第442連隊戦闘部隊の兵士たちにたいしても、一般市民が彼らの活躍を正当に認めるには長い時間がかかっています。本土に帰還した当時、ダニエル・イノウエがサンフランシスコでハワイに戻る前に散髪でもと店に入ろうとすると、軍服を着ていたのにもかかわらず、「日本人だろう。日本人の髪は切らないんだ」と言われています。1959年ハワイから下院議員に選出されたダニエル・イノウエ議員が星条旗に向って左手をあげて忠誠の誓いをしている新聞の写真を見て、読者からの「どうしてあの議員は右手をあげて宣誓しないのか」との抗議の手紙をうけて、編集者は「イノウエ議員はイタリアで戦った際に右手を失ってしまったのです」と説明しています。 シローたちがシアトルにもどってきた時にも、アメリカの復員軍人会、陸軍軍人会に入会しようとしても、すべて拒否されています。そこで立ち上がったのが剣道クラブ。立ち…

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