天海 幹子

(あまがい・みきこ)

東京都出身。2001年から2005年まで北米報知でジェネラルマネージャー兼編集長を務める。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。シアトルの二世退役軍人のインタビューが、最も心に残っているという。昨年11月、44年のシアトル生活を終え、現在は東京在住。

(2021年1月 更新)

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Quiet Warriors

ポール・ホソダさん

「平等と公正さ、それが僕にとっては考え方の出発点になっているんです」と語るポール・ホソダさんの土台には高校時代から触れていたキリスト教の思想がある。「神の下では全ての人間は平等である」と強く信じるホソダさんの傍らには、48年連れ添ったメアリー夫人が微笑む。

2人はホソダさんが除隊後通い出した、シアトルのブレイン・メモリアル・合同メソヂスト教会で知り合った。「最初は女の子を探しに行ったんですよ。教会は人に出会うにはもってこいの場所だから」と照れながらも、現在も2人は教会での奉仕に深く関わり重要な存在を示す。ホソダさんの「正義」がキリスト教の思想に後ろ盾されて信念となるには、17歳からの軍隊の経験が大きくものをいう。

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ミツル・タカハシさん

「ブロンズ・スター(勲章)はあんまり意味がないんですよ。戦争に行った人はだいたいもらえるから。これがシルバー・スターで、これがパープル・ハート(名誉戦傷勲章)。ドッグ・タッグ(兵士が首から下げる「犬の鑑札」と同じ様なID札)。これが大統領からの感謝状。そしてこれは除隊証明書」と額に入った数々の記念品を指して笑顔で説明するミツル・タカハシさん。ミネドカ(*)収容所の高校からスイート・ハートだった、奥さんのジューンさんがまとめてくれた額だ。

「どこを怪我したんですか」との質問から戦争の話に入り込むと表情がこわばって来るのが感じられる。「イタリアでドイツ軍から待ち伏せの攻撃を受けた時、肩をやられたけれど、弾は骨も肺も避け…

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パット・ハギワラさん

「僕はラッキーだったと思いますよ。アラスカで生まれてからずっとね。小さなコミュニティだったから、お互いをよく知っていて、学校なんかも幼稚園から高校まで1つの校舎でね。日本人が9軒か10軒集まっていたメインストリートのステッドマン街では、冬は店を閉めて、子供たちが坂の上からそりで滑ってくるんですよ」

まるで昨日の事に様に楽しそうに話すのは、パット・ハギワラさん(84)。アラスカ州兵軍から442部隊に送られた4人の二世兵士の1人だ。物静かな日常を好む、穏やかな日系人というイメージを受ける。

長野県生まれの父は1907年に1度アラスカに来たが、16年に日本へ帰り滋賀県生まれの母と結婚した。2年後に再び小さな漁港、ケチカンに…

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アート・進(ススミ)さん

「恐くはなかったですよ。戦争で周りに死んだ人を沢山見ていましたからね」と語るのは22歳で葬儀屋になったアート進(ススミ)さん。亡骸(なきがら)と同じ屋根の下で眠るのは恐くなかったかの問いの答えである。第2次世界大戦では442連隊部隊で活躍し、ブロンズ・スター賞を受けたススミさんは全米でも数少ない、ワシントン州では唯一の日系葬儀屋のディレクターを43年務め、91年にそのERバターワース葬儀社を退職した。戦争が、若かったススミさんのその後の人生に少なからず影響していることは事実だ。

ススミさんは戦前のシアトル市日本町(8番街とワシントン通り)、現在の日本館付近に生まれる1。父親は福岡、母親は名古屋出身。大恐慌後の1930年…

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ジョージ(ガンジロー)・モリヒロさん

「戦争にね、あの時の僕は興奮させられたなぁ」と、危険とも取られる発言をするのはジョージ・モリヒロさん。「でもね、誤解しないで下さいよ。僕は17才だったから。ライフルを持って国のために戦うことにわくわくしていた。周りにいくらドイツ兵が倒れてたって、自分たちは決して死なないと思っていた」。それが銃弾がヘルメットの右端をかすって軽い負傷をした時、「死ぬ事もあるかもしれないって思いました」。

モリヒロさんはタコマ市近くのファイフに生まれる。農業に適している肥沃な土地だったが、広島出身の父はタコマ付近の木材工場に勤務。戦争が始まり、ハワイ出身の母、姉2人、兄1人と共に一家はピュアラップの仮収容所からミネドカ(*)に収容された。も…

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この筆者が寄稿しているシリーズ