天海 幹子

(あまがい・みきこ)

東京都出身。2001年から2005年まで北米報知でジェネラルマネージャー兼編集長を務める。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。シアトルの二世退役軍人のインタビューが、最も心に残っているという。昨年11月、44年のシアトル生活を終え、現在は東京在住。

(2021年1月 更新)

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Quiet Warriors

戦士たちに捧ぐ歌 「静かな戦士たち」シリーズを終えて

2002年、二世復員軍人会の理事をしていたトーシ・オカモトさんが北米報知オフィスに現れ、残り少ない「二世ベッツ」の生の声の記事を依頼された。リストは40人ほど。話したがらない方、認知性をわずらってしまった方を抜かし、年長者から2時間に限定してインタビューを始めた。主旨は、アメリカでも一般にはあまり知られていない442部隊とMIS(米軍諜報部員)の事実を英語でインタビューし、日本語で日本の国、日本人に届けることと、彼らの言いたかったことをそのまま記録として残すこと。 「トーシ、次はあなたの番よ。いつがいい?」とオカモトさんに電話した時、意外なことを言われた。「みきこ、僕はまだ準備ができていないんだよ」。どんな準備が必要なのか問うと、「いや、あんたには悪い評判があってね」と言う。「つまり、あんたがインタビューをするとだね、みんな死んでいくんだよ」。その頃13人中4人亡くなってしまった。 インタビューした元兵士が亡くなってしまうのは、高齢というのもさることながら自分の一生または半生を振り返り、終止符のようなものを打ってしまうからなのだろうか。そして私はその機会を彼らに与えてしまったのだろう。こうして、私のインタビューはMISの3人の方を最後に、終わってしまった。 アメリカの国歌を聞くたびに、私の頭にはある光景が浮かぶ。実際には行ったことも見たこともないドイツ国境近くのフランスのヴ…

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岩本 義人(よしと)さん

「(戦後の)フィリピンでね、よく日本人に間違えられたんです。アメリカの軍服を着ているのにね。(二世兵士たちと)何人かでカフェーに入っていったら、『日本のお茶、いかがですか?日本の歌は?』って、ピアノに走って行っていきなり『軍艦マーチ』をひきだしたんです。その後は、『支那の夜』をね」と笑って語るのは岩本義人さん。米国諜報部員として日本人捕虜の登録のため、戦後まずフィリピンに送られ、続いて横浜に2年駐在した。もう過去の話だからか、淡々と笑顔で話す。 5人兄弟の4男、ワシントン州ワパト市に生まれる。両親は熊本県出身。父親は1900年代前半、熊本では林業に就きワシントン州に移住してから「高木のてっぺんを木から木へと飛び回りながら木を倒すのが得意」の技を認められ、10エーカーの倒木、伐採の仕事をもらう。「10エーカー、木を切り倒したら、5エーカーくれるって言われたんですが、その頃東洋人は土地を所有できなかった。それを知らないで騙されたんですよ」と語る口調には憤りは感じられない。 その後長男が生まれたこともあり、ワパトに移りホテルを長男名義で所有、経営する。利用者の多くは春、夏はアルファルファ・小麦収穫のメキシコ人、秋はりんご収穫の学生、冬は日本からの出稼ぎの男性たちだった。岩本さんがまだ幼少の頃父を亡くし、兄2人は熊本の母方の叔父に引き取られた。 太平洋戦争が勃発し、閉鎖したホテルを…

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松井 尭(たかし)さん

「『勝てば官軍』だけがねぇ、戦争に負けたものを裁くのは、不公平だとか…。例えば広島に原爆を落としたと、それで何10万人という市民が死んだと。これはこういうことに関わった人たちも戦犯にかけないといけないということを言うんですけど、アメリカは『官軍』だからしょうがないんだよねぇ。そういうことをね、あの当時、東京裁判で言ったアメリカ人もおるのよ。本当はね、判事って言うのはね、連合軍以外の人がやるべきだと」 日本降伏後の横浜でB級裁判にアメリカ軍属の調査官として加わった松井尭(たかし)さんは、当時を思い出す。戦後の日本に進駐軍の一員として渡り、復興に携わった。早期復興の成功の影にどれだけの帰米二世兵士の努力があったのかは、見過ごされている事実だ。 松井さんの両親は福岡県出身。1910年に移民しオレゴン州フード・リバーでリンゴ園を営む。松井さんは3歳の時、母に連れられ両親の故郷へ出発。1934年中学卒業と共に帰米し、叔父の住むシアトルに移るが、英語が分からないため、ジェファーソン通りと12番街にあった外国人学校へ通う。両親はその2年前に松井さんの兄弟4人を連れ、アメリカを引き揚げ故郷で果実園を開いた。松井さんがワシントン大学4年生の時、太平洋戦争が勃発した。 「やぁ、大変なことになったなぁ」とラジオのニュースで真珠湾攻撃を知った松井さんは第一印象を語る。1941年12月…

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ジョージ・コーシ(合志)さん

「日本語忘れちゃったなぁ」と言いながらも、きちんとした日本語で話すのは終戦直後米国進駐軍とともに日本へ渡り、東京裁判で法務官として活躍したジョージ・コーシさん。92歳(当時)。マッカーサー元帥のもと、新日本国憲法の草案にも寄与した。傍らには占領時代に日本で生まれた長女、ジョイスさんが、数年前他界した夫人、アイさんの写真の前で微笑む。 コーシさんの両親は熊本からの移民。「初めに父が来て、その後(日本にいる)おじいさんが母を世話して送り、こちらに来て初めて父に会ったそうです」と写真結婚を自分のことのように照れながら話す。両親は小作農家を営んだ後、デンバーでホテルを購入し日本人相手に経営する。 コーシさんはコロラド州グリーンリー(デンバー北60マイル)で10人兄弟の3番目、次男に生まれる。6歳の時、兄弟6人は熊本の両親の故郷に送られ、コーシさんは小学校から高校までをそこで過ごした。16歳で帰米し、米国人としての教育を小学校1年生から高校までもう一度やり直した。デンバー大学では法科を専攻。 1940年に徴兵される。キャンプ・サベージでの6カ月の基礎訓練後、一般の歩兵としてさらに6カ月。その後コーシさんは日本語の教官となり、41年4月諜報部員(MIS)としてワシントンDCに配属される。「DCでは日本の歴史、文化を勉強しました。諜報部には日本関係だけでなく、どうしていいか分からない情報…

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ジミー・カナヤさん

「戦争(第2次世界大戦)が終っても、退役しなかったんですよ。そのまま軍隊に残って韓国に行きました」。少年時代から軍隊に憧れていたジミー・カナヤさんは朝鮮戦争、ベトナム戦争にも参加し、74年に引退するまで軍隊一筋のベテランだ。 「日本との戦争が終る前から、日本を占領した場合管轄の指揮官養成のためにと、日本の慣習、宗教、日本語の勉強をしていたのですが、二世の僕でさえ『どこに行きますか』くらいの日本語を教えることになって…。ところが、実際に戦争が終ると必要がなくなったらしく、日本語のクラス250人、全員が韓国に飛ばされました」とカナヤさんは笑いながら語る。「僕はたった1人の日系二世で、ソウルでもその後行った満州でも日系人、日本人と対応する係でした」 カナヤさんはオレゴン州クラカマスの農家出身で、1941年に20歳で入隊した。日米戦争が始まる前年の40年、海軍、海兵隊にも志願したがたらい回しにされ、41年になり、ようやく念願達成し陸軍に入る。同年代の友人が続々徴兵されるのを見て、徴兵の始まる21歳の誕生日前に志願した方が有利と考えたからだ。 家族はミネドカ(*)収容所で過ごす。農地は貸し付けてあったため、戦争中に奪われる事はなかったのが不幸中の幸いだ。 カナヤさんが442連合大隊、第3部隊の衛生兵として出陣したのは「ロスト・バタリオン」で知られる多数死傷者を出した大…

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この筆者が寄稿しているシリーズ