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アメリカ料理界で活躍した新一世の記録: カリフォルニア州サウスパサデナ在住の佐藤了さん — その1 東京オリンピック契機に料理修業の旅立ちへ

フランス料理のシェフ、佐藤了さんは、2004年までロサンゼルス近郊のアーケディアでレストランを経営していた。店の名前を「シェ・サトー」と言 う。郊外にありながら、遠方からでも顧客が駆けつける超人気のフランス料理のレストランだった。2004年に引退,店を閉めてからは、日本の出身地とアメ リカの地元をつなぐボランティア活動に従事している。サウスパサデナの自宅で、半生を振り返ってもらった。

アメリカへ移住してきた新一世たちの、母国日本を離れた動機はそれぞれだ。留学や結婚が契機になった人、ビジネスでの成功を夢見た人…。栃木県出身の佐藤さんが日本を離れたきっかけは、東京オリンピックだった。今から45年前、1964年のことである。

東京の丸の内ホテルで働いていた26歳の時、オリンピック選手村に派遣される350人のシェフの1人に選抜され、1万人分の選手の食事を担当した。 佐藤さんの手元に今でもある昭和39年の産經新聞の写真では、帝国ホテルの村上信夫シェフの後方に立つ佐藤さんの姿が確認できる。

「世界から集まった選手たちにとって、ベストコンディションを保つためには、食べ物が一番のエネルギー源なのです。しかし、ヨーロッパの選手のため に、日本人が料理を作っても、やはりそれは本場のものとは違います。教わっている料理と本場の料理が違うなら、自分が本場で学ぶしかない、という思いに駆 られました」

オリンピック終了後、佐藤さんは早速、レストラン協会の欧州派遣制度に応募した。応募の条件にあった3カ国語も、フランス語はアテネフランスへ通 い、英語とドイツ語は個人教授についた。「当時は外国語を習う人も多かったですね。東京オリンピックを機に,国民の目が世界に向いて開いたからでしょう」

1965年、欧州派遣の研修地として向かったのは、スイスだった。羽田空港で50人に見送られた佐藤さんは、「まるで戦地へ赴く兵隊のようでした。使命を達成するまでは、絶対に日本に帰って来ることはできない、という思いでした」と振り返る。

派遣期間は1年だけだったが、スイスで研修を終えてそのまま帰国する考えはまったくなかった。フランス料理人である以上、めざす先は隣国のフランス。働かせてほしいという手紙と履歴書を次々に希望の店へと書き送った。

受け入れてくれたのは、パリのオデオンにある魚料理の専門店。「無給でした。当時は日本からの見習いはホテルのオーナーの御曹司などで、フランス人 オーナーに当然のように無給で使われていました。しかし、私には日本からの仕送りなどなかったから、辞めると言ったら、今度は『給料を払うからいてほし い』と言われました。その店には5年いました」

さらにプルニエ、マキシム・ド・パリ、レドワイアンを含む複数の有名店で働いた後に、マキシムで働いていた同僚からアメリカでの待遇を耳にし、渡米を決意する。ビザを待つ間にロンドンのサボイホテルでも働き、遂に1971年にニューヨークに渡った。

アメリカで最初の職場となったのは、セントラルパークと五番街のコーナーに面した名門ホテル、プラザ。「バンケットの需要があるプラザにとって、氷細工ができたことが優位にうつったのでしょう」

しかし、実際に働き始めてみると、ヨーロッパとアメリカの違いに戸惑うことがあまりにも多かった。「一言で言うと、アメリカのフランス料理は味が大 雑把です。フランス料理が本来備えているべき、きめ細かさがありません。もちろん、私が最初働いたのがバンケットというせいもあるでしょう。合理性を追求 するために、あまりにも人が少ない。ヨーロッパでは150人のお客のために35人のコックが働きます。それだけ手間がかかっている。アメリカではそこまで とても期待できない」

アメリカの料理界に多少失望した佐藤さんだったが、ニューヨークに留まることはなかった。すぐに誘われたシカゴへと活躍の場を移した。

その2>>

©2009 Keiko Fukuda

chef Chez Sato culinary food restaurant Ryo Sato