アマゾン遡行アンデス山脈横断の冒険家

特筆すべきは小林美登利の場合「冒険家」でもある点だ。1929年に日本人として初めてアマゾン川支流を遡ってボリビア、ペルーを横断してアンデス山脈を越えた。彼の仕事が集大成された出版物は『大和民族渡伯五十周年 福島記念誌』(編纂=ブラジル福島県人会、責任担当者=小林美登利、1958年)だろう。彼が4年かがりで書き上げた770頁の大作だ。
そこに「アマゾン遡行アンデス横断記」(519~528頁)が掲載されている。サンパウロ市での聖州義塾という教育事業の基礎が固まったところで、「色々な問題解決の為に再び北米通過帰国の途に就くことになった」のが旅の動機だ。
当時、トメアスー移住地(アカラ植民地)建設が始まろうとしていた。1928年に鐘紡の武藤山治総裁はブラジル移民推進のために南米拓殖会社を創立し、腹心の福原八郎を送り込み、「日本人発展の地はアマゾン」と叫んでいた時代だった。ならばその地をこの目で見てみようと考えた小林は船で、パラー州ベレン経由でニューヨークまで北上する計画を立てた。
途中に立ち寄ったベレンでコンデ・コマに面会し、彼から「ボクはこれまで世界を股に掛けた方だが、アマゾン程よいところはない。ボクはここに骨を埋める積りである」(以下、小林の表現を現代日本語に翻訳)との言葉を聞き、「アマゾン地帯の将来に対して大いなる興味を喚起されたのである。そこで最初の計画を一変して単身アマゾンを縦断しボリビアに入り更にアンデス山を越えて太平洋岸に抜け出る計画を立てた」(520頁)と書かれている。
つまり、その場でアマゾン遡行計画をたて十数日の調査と準備を経て実行に移した。誰に聞いてもアマゾン遡行してボリビア行きをする情報がないなか、「アマゾン最大の支流マデイラ川を上った処にリベラルタという日本人の集団地があることを、以前から聞いて居ったので、とにかくそこまで行ってみたら、先は何とか見当がつくであろうという想像を抱いて、ベレンを出発する決心を起こしたのである。しかしこれはもしかすると生命の危険を覚悟せねばならぬで荷物は一切サンパウロに送り返し、いよいよ裸体一貫となり書置きまでして出発の身となった」(520頁)と覚悟をした。
枕木1本に死者一人のマデイラ・マモレ鉄道
1928年7月21日にマナウス行きの客船に乗って出発。マナウスから船で七昼夜かけて船の終点となるポルト・ベーリョ。そこから360キロはマデイラ・マモレ鉄道で、グワジャラ・ミリンまで。「この鉄道沿線地帯は恐るべきマラリア並びに黄熱病の巣窟とも言われるところで、各人家が二重の金網で囲まれているのを見てはゾッとせざるをえなかった。この鉄道は第1次世界大戦当時、この地方に良質のゴムが生産するので、このゴムの景気で敷設されたものであるが、それがために犠牲となった者の数はそこに横たわる枕木の数がこれを代表しておると言われておる。それほど当地は恐るべき不健康地帯なのである。そしてそれ程犠牲を払ってせっかく敷設したこの鉄道も終戦と共にゴムの大暴落となり今はほとんど火の消えたような淋しさであった」(521頁)と書く。事実、トメアスー移住地も入植当初マラリアなどの病害に苦しみ、多くがサンパウロ州など南部に転住した。小林は1928年のこの時点で、同移住地の将来を冷徹に見通していた。
マデイラ・マモレ鉄道の終点から、船で一昼夜でボリビアのリベラルタに到着。ここにはゴム黄金時代に、一攫千金を夢見てペルーからアンデス山脈越えをしてやってきた日本移民が一時は1千人近くおり、小林が行ったときには200人程度まで減っていた。
「今思い出しても身の毛がヨダツ思いがする」アンデス横断
水路の終点トッド・サントからは、いよいよアンデス越えだ。ボリビア人のカラバナ(騾馬10頭に荷物を括り付けて行き来する行商隊)に交じって、5日間の山越えとなった。「アンデス山の東方は非常に雨量が多くて殆ど毎日の様にゴロゴロと雷が鳴って絶えず雨が降るのであるが、数日の間は一軒の家もないので、大木の蔭に身を寄せて雨の中に寝て雨の中を歩かねばならないので、身体の弱い者など到底耐え得べき旅行ではない。途中に動物の骨とも人間のそれとも見分けのつかない白骨が散らばっている場所を幾度か通過したが、なにぶん、1万数千尺もあるアンデス山帯の道なき道をよじ登るのであるから、今思い出しても身の毛がヨダツ思いがするのである」と大冒険そのものの経験が記されている。
コチャバンバに無事到着して、ラ・パスからペルーに2週間滞在してから、船でいったんリオに戻り、休憩してから船でパナマ運河を超えてロサンゼルス、サンフランシスコを経て、1929年2月に13年ぶりに日本帰国という旅だった。
つまり、その後、冒頭の渋沢栄一との会見という流れになる。「色々な問題」の一つが資金集めだった。
冒険の感想として「南米各国は各々独立国であるがイザとなれば北米は殆ど己が属国のごとくこれらの国々を左右することは、今回の世界大戦によって証明されたところである。戦争中、在留同胞の或る者は言語道断な迫害を受けたが、それは決してブラジルそのものから来たものでないことは、誰知らぬ者はなかった。ゆえに我らはこれを敵に回さずにむしろ協力者として彼らと提携するに若くはないと思う。すなわちブラジルは土地を提供し、北米は資本を出し、日本は人間を送ることとして、日米伯3国協同のもとにここに平和的文化事業を進めることができれば、これに越したことはないではあるまいか」(528頁)と独特の見方で締めくくる。
北米と比較してブラジルを「理想郷」と説く哲学
このように小林の書くものには常に北米との比較や関係が記され、グローバルな視点が透徹されているのが特徴だ。
「編集後記」から小林の哲学が散見される文章を抜き書きすれば、「私は初めからここに骨を埋める覚悟の許に渡伯し、子弟教育の重任をもって一生の使命と信じ一意専心その道を進んできた」(767頁)と生き方を振り返り、今後あるべき日系人の姿をこう記す。
「今日その文化を誇る北米合衆国は従来の土人を滅亡せしめたばかりでなく、有色人種を排斥して白人種のみの文明を実現しているのですが、しかし来たらんとするブラジル文明の構成スケールはそれとは全く趣きを異にして、従来の土人と合体し有色人種を含む世界のあらゆる人種を網羅して人類史上かつてない新文明を創造せんとしているかに見受けられます。先般来伯された田中耕太郎博士が言われた様に『ブラジルはあらゆる人種民族が集合して各自の特長美点を発揮しつつ人類社会最大の交響楽を奏でる理想郷』と化するのではないかと思います。したがって我々の持っている美点特長はこれを棄てる必要がないどころか、ますますこれを発揮してこの交響楽にかつて見られぬ妙音を加え、これを更に崇高偉大な音楽団となすことが、我々の使命ではないかと思います」(同)と高らかに説いている。
この文章が66年前、1958年に書かれていることに感動を覚える。ある意味、実際にその通りになって来た部分を感じる。もちろん〝人類社会最大の交響楽〟には程遠いが、少しずつだが近づいていると言えないだろうか。来年は聖州義塾開設100周年、何か記念行事があってもいい。(一部敬称略)
*本稿は、「ブラジル日報」(2024年9月3日)からの転載です。
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