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3-11 思い出に残る: 校長先生の物語 - パート 1

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3.11から14年経った今でも、あの災害のシュールなイメージを忘れることができない。シュールレアリストのサルバドール・ダリですら想像できなかったであろう、死と破壊の無数の絵がある。高速道路に投げ出され、ビルに挟まれて道路がふさがれ、車や家全体がおもちゃのように揺れ、漆黒の不吉な水の壁が擁壁を驚くほど簡単に転がり、漁村や町全体を水浸しにした。友人たちがカナダや日本の友人たちに連絡を取り、あの完全な破壊の中で愛する人たちの安否を心配し、必死にニュースを知ろうとしていたとき、そのパニックと恐怖は明白だった。

ここカナダからテレビやユーチューブの動画で起きるすべての出来事を目の当たりにし、私は強い無力感を覚えました。動画は恐ろしいものでした。信じられないほどの力を持つ巨大な波が、高さ40メートル(130フィート)近くも岩手を襲い、東北地方の海岸線を容赦なく破壊し、想像を絶する速さと力で田んぼや漁村、企業を押し流し、それがもたらす苦しみにまったく動じない様子でした。

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2024年7月:私が最後に仙台を訪れてから15年が経ちました。私の人生の多くの側面が変わり、正直なところ、そこでの友情がこれほど長い年月をどれほど乗り越えてきたのかはわかりませんでした。

黒須センジさんとその家族との友情を新たにすることは、何の問題もありませんでした。私たちはみんな年をとっていましたが、センジさんと話をしたり、共感したりすることは、2009 年に最後に会ったときとまったく同じでした。電子メールでのコミュニケーションは、友情を維持する効果的な方法ではありませんでした。

100年以上営業している河原町の美容室で初めて会ってから、センジは私を「日本」の文化の迷路に導いてくれました。私たちの友情は長い物語の題材になるに値します。私たちは一緒にたくさんのことを経験してきました。彼に会って、こんなに簡単に友情に戻り、こんなに長い時間が経ってもまったく動揺しない。不思議なことです。

今日、彼は、ひどい雨の日に、小さな軽自動車で私を荒浜まで運転してくれた。梅雨がこんなに長く続くとは驚いた。彼は、必要なときに反対車線から来る車を通すなどしながら、狭い標識のない裏道や小道を走り、田んぼの迷路を抜け、通勤客で混雑する道路を迂回し、ついに海に着いたことを示す空き地にたどり着いた。それは、津波の直撃を受けたのと同じ、のどかな海岸線だった。

写真提供:川村孝男

私たちは皆、YouTube の動画を見たことがあるでしょう。津波は平地を襲い、容赦なくすべてを飲み込み、10km 離れた仙台の中心街までずっと押し寄せてきました。今日、よく知らない人にとっては、仙台の海岸線のこのエリアは、これまでと同じように牧歌的に見えました。海に近づくと、3月 11 日の犠牲者を追悼する小さな記念碑があることを指摘されました。

今日、センジさんは、地震と津波が東北地方を永遠に変えてしまった日に仙台市立荒浜小学校に勤務していた校長の川村校長先生に会うように手配してくれました。

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校長 川村孝男

川村先生は2010年4月1日に荒浜小学校の校長に就任したばかりで、海岸沿いに流れる歴史ある貞山運河の周辺で漁師や農家として暮らし働く約800世帯、2,200人のコミュニティに奉仕する学校での実りある1年を締めくくろうとしていた。

太平洋から700メートルに位置する荒浜小学校は1873年に創立され、2011年3月現在、生徒数は91名です。

2011 年 3 月 11 日の金曜日はどのように始まりましたか? 他の学校の日と同じような日でしたか?

日常の生活でした。「おはようございます」子供たちの挨拶が飛び交います。

3月11日朝、通常に学校が始まりました。ごくごく普通の学校生活のスタートでした。

いつもと違うことと言えば、午前10時から隣接地区にある七郷中学校の卒業式に参加していたことです。七郷中学校は海から4km離れたに場所にあり、荒浜小学校卒業生の多くが進学する学校です。卒業式は粛々と進行し12時30分頃に無事終えました。中学生たちも全員下校となり,荒浜地区に戻ってきました。

午後2時46分に発生した地震の瞬間について教えてください

校長室におりました。

突然、ゆれ始めました。2日前も地震があったので、そのうちとまるだろうと思っていました。しかし、今回の地震は全く規模が異なりました。揺れがおさまると思うとさらに強く揺れだしました。先程まで使用していたパソコンやプリンターが、いつの間にか机上から落ちていました。


座っていた椅子が左右に移動するので、立ちあがり机上に両手を突き出し体の揺れを抑えていました。

校長室の壁には,歴代の校長の写真が飾ってあります。その写真がどんどん床に落ちていきました。ガチャガチャと窓枠が鳴り続けたので、言いしれぬ怖さを感じました。

校庭では子どもたちがしゃがみ込んでおり、教師たちは彼らを守ろうとしていた。

校長室の窓越しに校庭を見ました。ちょうど帰ろうと集まっていた2、3年生が校庭中央に集まって、しゃがんでいました。教師は両手を広げて子供たちを守っていました。その姿は、まるでひな鳥を守ろうと翼を広げている親鳥のようでした。

そろそろおさまるかと思うとさらにより激しく揺れ始める、そんなことの繰り返しでした。

どんどん地中に沈んでいくような感じでした。まるで「地面ごと底なし沼に沈んでいくような」気持ちになり、ひたすら耐えていました。

 揺れが続く中、校長室から職員室に移動しました。職員室には3名の職員がおりました。教頭、教諭、女性技師の3名です。他の職員は、各教室や各持ち場におりました。

災害発生時には,職員室が災害本部となります。本部の役割は情報収集と対応の決定、全校への指示(情報の発信)です。

そこで、早速その任務にあたり、情報の収集をしました。その方法は主としてTVです。地震の震度や各種警報・注意報の確認をしたかったからです。早速TVのスイッチを入れましたが,全く作動しませんでした。「TVが破損した」と思いました。

次に近隣校との電話連絡を試みました。受話器を耳に当てましたが無音でした。あたりを見回すと,日中で気付きませんでしたか,部屋の照明もついていませんでした。地域全体が停電だと分かりました。職員室に設置してあった「津波防災情報システムのスピーカー」からも何ら情報がありませんでした。電源を失い機能喪失したと思われます。数分後に大津波情報が発令されたらしいのですが、私が知ったのはその日の夜でした。

結果的に、地震や津波の情報は全く収集できませんでした。しかし,異常な大きな揺れだと認識しました。そこで、避難が必要と判断した私は、職員室内の非常放送マイクを握りました。通常の訓練でも使用している機器です。ところが何ら作動しません。停電の影響だと知りました。

この時点で訓練の時に使用していた情報収集・発信の手段がほとんど使用できなくなりました。頭が真っ白になりました。本当に困りました。

ふと職員室を見回すと,ハンドマイクが何個かありました。その1つを手に取り,職員室のべランダから校庭に指示を伝えました。「校舎に入れ!」。その後、各階へかけていき「4階教室へ移動しなさい」と指示を出しました。その指示が出せたおかげで、15時10分には4階教室に避難完了となりました。訓練の時は屋上避難でした。4階教室避難に切り替えたのは、防寒のためです。

4階に避難させた担任と児童には、「これ以上、他の場所には避難(2次避難)しないので、教室で待機」を告げました。荒浜は低地の中央にあり,隣接校まで約4km徒歩で1時間ほどの位置関係にありました。ですから、災害時には、校舎4階に留めると心に決めていました。

その後、私は一部の職員と1階昇降口に移動し待機しました。住民の案内をするためです。多くの住民が避難してきました。中には、ペット(犬)を抱えたままの方、病弱のため寝たままの方、また車いすの方などが避難してきました。

どのくらいたったでしょうか。職員から「引き渡しの要望が保護者からあります」の報告を受け、了承しました。緊急時には、事前登録してある家族に児童を引き渡す仕組み(引き渡し)が出来上がっていました。正確な人数は分かりませんが、何名かの児童を保護者に渡しました。その多くが無事避難しましたが、3年生の親子が自宅に戻る途中,津波に飲み込まれ亡くなりました。引き渡しの制度は今も多くの学校で整備していますが、その実施の判断は難しく、今も課題となっています。

保護者は学校に連絡を取ることができましたか?

地震発生直後、この地域は停電に見舞われ、電話サービスはすべて利用できなくなりました。携帯電話も回線が混線し、電源も入らず、ほとんど使用できない状態でした。

携帯電話が再び正常に使用できるようになるまで約4日かかりました。

続く >>

 

© 2025 Norm Masaji Ibuki

東北地方太平洋沖地震(2011年) 本州 インタビュー 日本 宮城県 仙台 東北地方
このシリーズについて

人と人との固い結びつき、それが、「絆」です。

このシリーズでは、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震とその影響で引き起こされた津波やその他の被害に対する、日系の個人・コミュニティの反応や思いを共有します。支援活動への参加や、震災による影響、日本との結びつきに関するみなさんの声をお届けします。

震災へのあなたの反応を記事にするには、「ジャーナルへの寄稿」 ページのガイドラインをお読みください。英語、日本語、スペイン語、ポルトガル語での投稿が可能です。世界中から、幅広い内容の記事をお待ちしています。

ここに掲載されるストーリーが、被災された日本のみなさんや、震災の影響を受けた世界中のみなさんの励ましとなれば幸いです。また、このシリーズが、ニマ会コミュニティから未来へのメッセージとなり、いつの日かタイムカプセルとなって未来へ届けられることを願っています。

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執筆者について

オンタリオ州オークビル在住の著者、ノーム・マサジ・イブキ氏は、1990年代初頭より日系カナダ人コミュニティについて、広範囲に及ぶ執筆を続けています。1995年から2004年にかけて、トロントの月刊新聞、「Nikkei Voice」へのコラムを担当し、日本(仙台)での体験談をシリーズで掲載しました。イブキ氏は現在、小学校で教鞭をとる傍ら、さまざまな刊行物への執筆を継続しています。

(2009年12月 更新)

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