伊東忠三郎
文献によると伊東忠三郎の略歴は次の通りである。
1871年 11月15日、山口県大島郡沖浦村に生まれる。
1893年 12月にシアトルへ上陸し理髪店を開業、同時にバス、洗濯業も兼業
1896年 日本食料品店を開業。
1900年 美術品店を開業さらに洋食店、和様グロサリー品のホールセンターを始めた。
1900年 11月に富士桂庵を開始し在米日本人の経営の手助けを行った。
1903年 山口県人会創立、山口県人会会長
1907年 理髪業組合創立、理髪業組合長
1918年 シアトル国語学校維持会長
1921年 北米日本人会会長
1923年 米国西北部連絡日本人会会長
1928年 二度目の北米日本人会会長
1932年 二度目の米国西北部連絡日本人会会長
1934年 北米日本人会商業会議所会長
本稿第6回でお伝えしたように1918年頃、伊東忠三郎氏は理髪業において、白人同業者との協調を計った。理髪業組合新年会に白人組合幹部を招待し、挨拶も英語で行うなど日米協調を実行した。また白人側の理髪料の余りにも法外な値上げについて、伊東氏は白人側組合にかなり強硬に抵抗したが、白人社会との協調を計るため、やむを得ず苦渋の選択をし日本人側も値上げに踏み切った。
この記事を読むと、伊東氏は直ぐに白人側の要求を受けるのではなく、日本人側の代表として白人組合に意見を主張できる優れたネゴシエイターであったことが伺える。
「一日一人人いろいろ(21)伊東忠三郎君」(1919年1月30日号1)
「日本人理髪業組合長、北米日会議長たる彼は山口県人でシアトル同胞中の古参株である。1896年頃に当地で日本食料品店を創めた事もあると云ふ。理髪組合創立以来、組長となってよく世話をするので毎年推されている。公共の事にも熱心に努力するが彼には200人近い理髪業者と云ふバックがある。これが彼の勢力であって彼の事業中一番成功したものであらう」
伊東氏は山口県出身者を始め、多くの日本人に理髪業を授けた。筆者の祖父與右衛門よえもんも伊東氏から理髪業を紹介され、成功を収める事ができた。
当時の北米時事社社長の有馬純清氏が日本人会選挙について「桜岳随筆」にて次のように述べている。
「桜岳随筆」(1920年2月24日号)
「山口県人の一派が結束して同県人を北米日本人会の役員に推薦しやうじゃないかと相談すると、温厚な伊東忠三郎君が、『そうはいかぬ。在沙同胞中多数を有する山口県人が団結して役員選挙をやるとなると非常な弊害が現れる。どうか其の事だけは伏して貰ひたい』と言ったので、其儘になったということだ。かくあってこそ真に同胞一般の福利と進歩とを擁護する者であるといふ事ができる」
日本人会選挙は時代が進むにつれ名誉職の争奪戦の様を呈していたが、伊東氏は自己の名誉ではなく、真にシアトル在留日本人のために尽くす仕事をしようと考えていたことが伺える。
「本社の質問に読者からの回答」(1938年1月1日号)
当時のシアトルの著名人に次のふたつの質問に答えてもらっている。
①今年私の実行したいと思ふこと
②事変に鑑み在米同胞は如何に生活の合理化を計るべきか伊東忠三郎
①第一、金融機関の設立、第二世の将来の為の貯蓄を推奨し其機関の設立は急務中の最たるものなり。是非とも本年は其工作をなさねばならぬと思ふ。第二、公会堂の設立、会館の設立は十数年来の在留同胞の懸案なれば、事変終局後は是非とも具体的に出現する様努力し、運動機関の統制をなし、柔道、剣道の統一を計り、強固なる団体として第二世青少年の心身の鍛練を推奨したいと思ふ。
②今回の大事変を一機会として真剣味に合理化する必要がある。冠婚葬祭に於ても、冗費を省き、不生産的な事は一切を止め、式典に重きを置く事とし、外見を飾らず華美を戒め贈答は其意志を表わす程度に於て止むる事とし、団体的にも個人的にも之を応用する事が生活の合理化の第一歩である」
「伊東、中河両氏帝国教育会より表彰」(1939年10月13日、11月29日号)
「シアトル国語学校維持会長伊東忠三郎、国校校長中川頼覚、タコマ国語学校長長崎正人三氏に今回帝国教育会より表彰状が授与された。17日に領事官邸にて祝賀の小宴開催。(中略)11月28日にはその祝賀会が日光楼にて国校維持会役員、学務財務委員により催された」
「日本産業協会から伊東忠三郎表彰状」(1940年1月12日号)
「伊東忠三郎氏は当地渡航以来、多年在留同胞の指導誘掖(ゆうえき)に尽力し我国運の進展に貢献したる功績に因り、今般、日本産業協会総裁、伏見宮博恭王(ふしみのやひろやすおう)殿下より表彰状を授与せられ、昨日領事館に於て其伝達式が行はれた。本年の受賞者は39名内10名が海外在留同胞であるが、在米邦人中其選に当ったのは伊東老のみであるのは特筆すべき名誉とせられて居る」
この伊東忠三郎氏の表彰について有馬純義氏が「北米春秋」に次のように語っている。
「北米春秋、花園一郎」(1940年1月15日号)
「伊東忠三郎翁が今回日本産業協会から海外発展の功績者として表彰された。これは伊東翁個人の名誉のみでなく、シアトル同胞の名誉と考えへてよいと思ふ。何故なれば、今日までの同胞の奮闘がそれ丈け認められたと考へられるからである。(中略)
伊東翁の多年の献身的奉仕に対して、我が社会はこれと云ふ感謝の意味も表して居らぬのに、日本からその功績が表彰されたと云ふのも本末転倒と言はずんば我が社会の自己認識の不足を暴露するものではないか。伊東翁は必らずしも、敏腕卓抜の見識を持って、同胞社会を指導したとは言えぬかも知れぬ。併し乍ら多年縁の下の力持ちとして奉仕を続け来れることは何人も異論なきところと思ふ。(中略)
伊東翁は勿論同胞社会からどんな感謝、表彰をして貰ひたいなどとは考へて居らぬであらう。併し乍ら社会としてはこれを何等か適当に考慮すべきだと思ふ。それではどんな方法があるであらうか。それは伊東翁として隠居ではなく現役としてもっと活躍せしむることであると思ふ。これが恐らくは伊東翁の希望であり、又翁の晩年を完からしむる所以ではあるまいか。若し翁の健康がそれを許さぬなら止むを得ぬがまだまだ心身とも第一線に立って活躍するに不充分とは思へない。(中略)これが恐らくは同翁の表彰以上に喜ばれるところのものに他ならぬと思ふ」
1940年1月17、18日号において、伊東翁表彰祝賀会が関係諸団体により予定されるとの記事が掲載されたが結局、24日号日商主催で国語学校、山口県人会、仏教会、大日本武徳会米国シアトル支部、洗濯業組合、理髪業組合の関係諸団体すべてが参加して26日行われる記事が掲載された。
この連日の記事を見ると、伊東忠三郎氏は各界からの信頼、人気が非常に高い人物だったことが伺える。
「伊東忠三郎氏表彰祝賀会」(1940年1月27日号)
「伊東忠三郎氏が今回日本産業協会より表彰されたので、昨晩7時よりマネキ亭に於て日商有志主催の祝賀会が開催されたが出席者116、7名の多数に上り盛大な祝賀会であった。
先ず山口県人会会長近村改蔵氏が司会者として開会の挨拶を述べ、日商会長三原源治氏が『伊東氏が表彰された事は独り伊東氏の名誉のみでなく、西北部在留邦人の名誉である』と祝辞を述べた。連絡日会長沖山栄繁氏が伊東氏の長き社会奉仕の生活を語って祝意を表した。帝国領事佐藤由己氏が伊東氏の高潔なる人格を稍揚し一同乾杯の後、伊東氏が感激に溢れた答辞を述べ、会食後余興百出、歓を尽して散会した」
伊東忠三郎氏は1949年4月9日、奥田平次氏は1955年12月20日に亡くなった。この訃報記事を『北米報知』では「在米同胞のたから、伊東忠三郎氏逝去」「奥田翁、巨木遂に倒る」と掲載された。両氏とも戦前、戦後を通してのシアトル日系人社会の大先駆者だった。
次回は日米親善に努めたシアトル在留日系人についてお伝えしたい。
(記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)
注釈:
1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。
参考文献
加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
伊藤一男『北米百年桜』日貿出版、1969年
*本稿は、『北米報知』に2023年2月27日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。
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