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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2025/2/4/north-american-times-23-pt1/

第23回(前編) シアトル日系人社会のリーダー・奥田平次

コメント

前回はコミュニティチェストとポトラッチ祭についてお伝えしたが、今回はシアトル日系人社会のリーダーとして活躍した奥田平次と伊東忠三郎の功績についてお伝えしたい。

奥田平次

奥田平次氏、『北米年鑑』1936年版より

文献によると奥田平次の略歴は次の通りである。

1867年 1月2日に奈良県磯城郡安倍村に生まれる。

1890年 在東京の際田村某の女性と結婚
    1899年に亡くなった。

1893年 8月に渡米

1900年 パーキンス女史と結婚
    シアトルで運送業開始

1901年 日本人会組織時、副会長

1906年 東洋運送会社社長

1913年 北米連絡日本人会の初代会長

1919年 奥田柴垣商会創立、日本品輸入貿易

1920年 北米日本人会会長

1924年 大北鉄道に邦人労働者供給を業とする東洋貿易会社社長

1925年 二度目の北米日本人会会長

1927年 米国西北部連絡日本人会長

1900年 シアトルで運送業開始した頃の様子を記した記事があった。

「メーン街盛衰記」中村赤蜻蛉(1939年1月1日号1

「1900年1月初旬にバイキ街のさゝやかな教会で奥田平次氏がボストン出身のパーキンス女史と結婚した。第三街をメーン街の方へ歩いて帰ったそうであるが、新郎新婦がアーム・イン・アームで歩むには第三街の道は余りに狭く、路傍の草村からは前後左右に兎がピョンピョンと飛び出したものであったとのことである。

奥田夫妻はメーン街と第五街の角、今の西岡デンティストのあるルームを当座のラブネストとし、下で今の運送業を開始した。メーン街にビジネスを始め、連綿として今に伝はってをり、今に生き残ってをる者は実に奥田氏一人である。奥田氏は間もなくメーン街507番に引越し、事務所のフロントでは細君が英語を教へた。故高橋徹夫氏、築野豊次郎氏などが足繁く習ひに来た」

また、1900年以降の奥田平次氏のビジネスの様子を回顧した記事があった。

「あの頃の一日分が現在の一ケ月分、運送業」(1940年1月1日号)

『北米時事』1940 年1月1日号

「何しろ団子汁を食った時が今から4、50年前、即ち半世紀も前の話で、世界大戦当時と云ふと四半世紀の25、6年前のことだから、そう一寸思いだせんナァと前置きして奥田平次氏は例によって眼をショボショボさせながら……開業以来同一場所で連綿として経営を続けてゐる東洋運送社内の横まった事務所で感慨に耽りつゝ……エキスプレス華やかなりし頃を追憶し乍ら次の如く断片的に語った。

『その時分は自動車と云へばみんな2000ドル以上もしたが、トラック4台にドライバー4人がオールデイ走り廻るほどの忙しさだった。料金は今とは殆ど変わってゐないが、当時よく働いた一日分は現在の一ケ月分に相当するんだからね。

戦争の末期には毎船300人位の日本人が来るし、日本郵船と大阪商船とが毎月2回で4回、その他外国船等もおり、藤井ホテルだけで一日のデリバリーが150ドルもあったことを覚えてゐるね。1908年の日米間の船賃は日本からは63円。米国からは43ドル50仙だったと思ふ。尤も為替相場は60ドル近くが100円に相当したんだからね。あの時分は大いに儲けた訳なんだがさっぱり残ってをらんよ』」

「実業観光団決定」(1917年12月18 日号)

「奥田平次主催シアトル母国実業視察団は愈々来年1月19日出帆の郵船伏見丸にて出発する事に決定。団費350ドルにて日本観光は10日の予定。往復総て一等賄い。定員15名なれば此際至急申込まるべし」

「伏見丸で帰国者」(1918年1月17 日号)

「奥田平次氏の一団には柴田商店の青木透、宮川万平夫妻、日本貿易社の副支配人伊東仙太郎、原清一、桐田の諸氏あり。シカゴ大学経済学士松本斎二郎。既報したる三根、鎌田、中村、春井の諸氏あり」

奥田平次氏の一団は本稿第5回でお伝えしたように、1月19日に佐藤大使と共に伏見丸に乗船し日本へ向かった。


奥田平次氏は帰国時に当時の日本の政治や経済の重要人物である、大隈重信、渋沢栄一と直接面談し、シアトル在留日本人の状況、問題点等を直訴した。

「奥田平次氏東京に在」(1918年4月10日号)

「帰朝中の奥田平次氏は目下東京にあり。昨日柴垣氏に達したる書状によれば、大隈侯を訪問せしに、 快く引見せられ例の如く快談、時の移るを知らざりしが、在留同胞の慰労法及模範的人物には何か表彰法を講せられ度しとの意見を述べたるに大ゐにに傾聴せられたりと。次に渋沢男を訪問したるは男は例により熱心に同胞の状態を質問せられ事業後継者、渡米緩和問題其他各種の陳情をなし、配慮を懇請して退出したりと。其他の運動を怠らずとあり」

大隈重信侯は奥田平次氏の訪問に答えるように1919年1月1日号に「在米同胞に告ぐ」としてシアトル在留日本人に「近来に到り排日の気焔衰え日米関係も益々親密となりつつあるは、在米同胞諸君の尽力に負ふ所大なりと信ずる」と激励のメッセージが掲載されていた。

「一日一人人いろいろ(11)、奥田平次君」(1919年1月15日号)

「昨日の総会で日本館会社の社長になった彼は、古への奈良の都の出身で10年1日の如くジッとしてはゐられぬ男である。原来健康体であるから能く働く。公共の事にもよく世話をしたが、通弁を業としてゐたので時々反対され批難の声もあったやうだが何も反対者の云ふやうに権謀術策のある腹黒い男ではないと信ずる。数年前、愛妻に先立たれて以来大分若返ったとの噂もある。仕事はテキパキと徹底的要領を得た所謂ヤリテである」

『北米時事』1919年1月15日号

「奥田日会長は新市長に祝意を表す」(1920年3月16日号)

「岡島金弥氏辞任せるため奥田平次氏今回北米日本人会会長に選ばれたるが、過般の選挙にて当選せる新シアトル市長コールドウェル氏昨日事務引継ぎ昨日より就任せるに付き、奥田日会長は市在留同胞を代表し新市長を訪ひ其就任に対し祝意を述べたりと」

この記事は奥田平次が初めて北米日本人会会長になった時のものであり、日米親善に配慮していたことが伺える。

「日本産業協会で沿岸の三氏表彰、シアトルは奥田平次氏」(1938年7月12日号)

『北米時事』1938年7月12日号

「日本産業協会では貿易の振興並びに国際親善に貢献された人々38名に対し、去る6月6日付け以て表彰を行ったが内10名は海外にある人で3名は太平洋沿岸在籍者である。シアトルは奥田平次、 ポートランド竹岡大一、ロサンゼルス森文五郎。奥田氏への伝達式は本日午後2時領事館にて行はれた。奥田氏は当地方の長老として既によく知られて居る。(中略)尚、奥田氏への表彰状はサンフランシスコ経由にて今朝領事館に到着したものである」

「息子さんを思ふ奥田老」(1939年9月27 日号)

「令息謙次君を日本に送った奥田平次老は大部寂し相だが『 息子も17になり大学に行く歳になったので、それ以前に日本に居られる叔父さんや叔母さんがどんな生活をして居られるか、日本の農民の生活はどんな風か、よく知らせてやり度い。そうすれば社会に出る様になってからでも役立つ事もあらうと思って一年ばかり私の故郷に送ってやりました。学問をさせるためではなく、生きた勉強をさせるためですよ』と語ってゐた」

『北米報知』1948年7月2日号によると長男謙次君はアメリカに帰国後、ハーバード大学を卒業し、26歳の若さでプエルトリコ大学の経済学教授となったことが記されている。

「読者からの回答」(1940年1月1日号)

当時のシアトルの著名人に次の二つの質問に答えてもらっている。
①同胞社会でこうしたらいいと思ふ事
②今年自分でやって見度いと思ふ事

奥田平次

①過去に於てこうしたらいゝと思ってやったことも後には反対の結果を来したことが少なくなかったです。現在の同胞社会は各自が忠実に其の与へられた仕事に努力すること、民族発展の一員であることを強く自覚することが一番良いことだと思ひます。

②今更何をやって見度いなどゝの野心はありません。只人様に迷惑かけないよふにしたい。夫れだけです。

この回答は奥田平次が72歳の時のもので、自身の体験からにじみ出たメッセージに感じる。奥田平次は戦前の日系人社会の発展に多大な貢献を果たしたが、戦後の『北米報知』創刊時に奥田遍理のペンネームで、自身が活躍した時代のエピソード等を二世、三世に伝授するため多くの投稿している。また、80歳の高齢で一世の帰化権獲得期成同志会の委員長を務めた。物事に積極的に取り組む人物で、それは晩年になっても衰えを知らない凄さがあった。

第23回(後編)を読む

(記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

 

*本稿は、『北米報知』に2023年2月27日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2023 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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