1946年サンパウロ州アララクァラ市で生まれたジョルジ・ジュンジ・オクバロ氏は多様な学業および職業上の軌跡を持つ知識人である。サンパウロ大学(USP)で土木工学とジャーナリズムと社会科学を卒業するまで、塾で物理学と数学を教えながら生計を立ててきた。
現在は、ジャーナリストおよび作家の他に、ブラジル記者協会(ABI)の有効なメンバーであり、サンパウロ人文科学研究所(Centro de Estudos Nipo-Brasileiros [CENB]、通称:人文研)の会長でもある。
しかし、人文研の会長に選ばれたのは、偶然なことだったし、ジャーナリストになったのも友人が与えてくれたチャンスのおかげであった。そして今、オクバロ氏は会長としてかつての人文研の偉大さを取り戻そうと尽力を尽くしているが、幾つかの困難を乗り越える必要があると言う。
人文研は日本の文化、日本人移民史、日系社会に関する重要なテーマを議論する場を提供している。また人文研図書室の蔵書は、文化的遺産ともいえる貴重なもので、文化的アイデンティティを守り、それを次世代へと継承するための重要な役割を担っている。
しかし、1946年の国語改革の前に書かれた著書の翻訳には、莫大な費用が掛かる上、当時の日本語を使いこなす翻訳者は少ないので、人文研にとって大きな悩みのためとなっているとオクバロ氏は言う。また、人文研の継続とコレクションの保存を確実にするためには、主にポルトガル語を話す研究者の数を増やすことが必須であるが、専門家だけでなくその予算も確保しなければ、研究所の存続は難しいとオクバロ氏は懸念している。
1946年に設立されたサンパウロ人文科学研究所は、オクバロ氏の出版物も含め様々な著者による日本移民に関する書籍をもとにの研究に取り組んでおり、日系社会に関する研究を継続する極めて重要な存在となっている。
オクバロ氏はいくつかの自著および共著による書籍を出版している。中でも注目を集めているのは2006年に発表した『O súdito: (Banzai, Massateru!) 』(臣下: マサテル、万歳!1、以下『臣下』)である。オクバロ氏は「この本はあらゆる面で変革をもたらしたと思う」と言う。というのも、この作品のお陰で、日系文化、特に沖縄の文化への関心が深まったからだ。
沖縄系の日系人としてオクバロ氏は、文化の二重性を感じながら複雑な気持ちで生きてきたという。ブラジル社会でも、日系コミュニティでも、少数民族の一員という意識が強かったと言う。
母親の勧めで沖縄舞踊やサンシン、剣道を習ったものの、どれも得意ではなかった。また、ウチナーグチ(沖縄の言葉)は家の中だけで話すよう母親に言われていた。母親は、ウチナーグチを外で使い、イジメに遭うことを心配していた。長年にわたりオクバロ氏は孤独を感じ、自分のルーツに対して恥かしい気持ちを抱いていたという。
しかし、父親の生涯について6年間かけて調べ、執筆をした。その後、自分がウチナーンチュ(沖縄人)であることを再確認したという。
しかし、オクバロさんをはじめ、オクバロさんの妻であるナンシーさんやお兄さんは、その本を最初に読んだとき、家族内意見が分かれ、沖縄県民に嫌われるだろうと懸念したという。、しかし今では「沖縄人にこそ献本したい本」だという。「ウチナーンチュであることを恥じることなく、勇気をもって自身のアイデンティティに誇りを持ってほしいと思っています。私自身も、以前は沖縄協会に所属していなかったのですが、(本を出版した)2006年から会員になっています」と、オクバロさんは語る。
マサテルと家族の物語
『臣下』は著者の父親であるマサテル・ホクバルさんの生涯について書かたものだ。マサテルさんがブラジルに移住したのは、1918年13歳の時だった。同時期、約6千人の日本人がブラジルへ入国した。マサテルさんは、新婚の叔父夫婦のタルとウシイとともにブラジルへ渡った。マサテルさんは父親チュウドヲと母親タル(義理の弟と同じ名前だった)の次男であった。
1931年、マサテルさんは26歳でフサコさんと結婚し、実子7人、養子2人、全部で9人の子どもを育てた。ホクバル夫妻は農業に従事したり、アイスクリーム店や洗濯屋を営んだり、朝市でも働いたという。『臣下』よると、父親はどの仕事も成功しなかったものの、「資産も借金も残さなかった」。
初期の移民たちはさまざまな困難や貧困に悩まされていた。1937年から1945年にかけてヴァルガス独裁政権下で「エスタード・ノーヴォ(新国家)」が設立された。その結果、日本人移民は資産を凍結され、自分たちの財産に対する管理権を失った。こうしたブラジル政府の措置は、外国人コミュニティを孤立させ、社会への参加を減らすことが目的だった。
第二次世界大戦による苦難: 「臣道連盟」の創立
1942年1月29日にブラジルと枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)は断交し、ブラジルの日系社会の状況は大幅に悪化した。大使館や領事館の閉鎖に伴い、日本人社会は外交代表を失った。外国語の使用は禁止され、日本学校のような外国人学校は、ポルトガル語が主言語となり、ブラジル名を使用することが強要された。さらにブラジル政府は日本語による新聞やその他の資料の発行を禁止したため、日本からのニュースは不安定な形でしか入手できなくなった。当初は一部の日本人はラジオ東京の放送を聴くことができた。
1942年には、ドイツの潜水艦によるブラジル船の沈没事件が報じられると、ブラジル国民の怒りを引き起こした。これを受けて、枢軸国に対するデモが発生した。他国からの移民よりも識別しやすかった日本人移民は、住民に家を攻撃されたり壊されたりした。1943年2月、サンパウロ市リベルダーデ区に住む日本人は退去を命じられ、同年7月にはブラジル当局がサンパウロ沿岸部から24時間以内に日本人を排除するよう命じた(オクバロ、2006年)。
そのころ、日本人移民たちは集まることを禁止された。それでもひそかに集まり、お互いに知っているニュースを交換し合い、それぞれがそこで聞いた情報を口伝えで伝えあい、その内容を真実として信じるようになった。そのような状況の中、日本の敗戦に関するニュースを受けいれられない人も多くいた。ブラジルがアメリカとともに敗戦したという事実を隠すためのデマだと考えた。
こうして「臣道連盟」が誕生した。1908年から日本からの移民が停止される1941年の間にブラジルに移住した日本人のほぼ4分の3が、臣道連盟のメンバーだったといわれている。
日本語での出版物が禁止されたことで、ポルトガル語を読めない多くの日本人移民の間で誤った情報が広まりやすい環境がつくられてしまった。さらに日本語の公式ラジオ局の放送は停止され、日本人社会はもはや正確な情報にアクセスできなくなった(オクバロ、2006年)。
オクバロ氏は「社会は重要な事実を知るべき」だが、「日本語での情報を禁止された結果、臣道連盟からの偽の情報が簡単に受け入れられてしまった」という。偽の情報が拡散されるスピードと範囲が非常に大きくなってしまい、結果的に不条理な状況が生み出された。将来、このような争いが起こらないように、これが臣道連盟の歴史から学ぶことは大切なことだと言う。
1946年、母フサコさんが第七児のジョルジ・ジュンジがら生計が成り立っていることを証明することが不可欠だった。おそらく上の子供たちが日本名しかもたず、下の子供たちはブラジルの名前を持っているのは、この新しい現実に適応しなければいけない事実が反映していたかもしれない。とはいえ、これはマサテルさんにとっても自己のアイデンティティを複雑にするものであった。
戦後長年にわたり多くの移民は「負け組」と「勝ち組」に分かれて争い続けた。このような曖昧な時期に、移民の間に起きていた問題を対処するために、日本の新興宗教団体「生長の家」がブラジルに代表を派遣した。
彼らは、「勝ち組」と「負け組」について議論をするつもりはなかった。というのも、彼らが理想とする日本は「永遠に勝ち続ける国」だからだ(オクバロ、357ページ、2006年)。しかし、「生長の家」の聖なる教えは、移民たちの知的欲求を完全に満たすものではなかったが、敗戦を受けいれるための精神的な慰めとなった。オクバロ氏の母親は「生長の家」の講師になったが、オクバロ氏自身がその教えを受けいれることはなかった。
2024年、ブラジル政府による人権市民権省の恩赦委員会は、戦中と戦後にかけてヴァルガス政権が日本人移民とその子孫に対して行った弾圧と迫害を認め、これらの犠牲者に謝罪を行った。2015年以来、ブラジル沖縄県人会とドキュメンタリー映画監督マリオ・ジュン・オクハラ氏の指導の下、日系社会は、戦時中日本人に対して犯された虐待と差別の謝罪を求めて来た結果である(オクバロ、2024年)」。
『臣下』は、私たちの経験の多くは分かり合えるもので、共通する社会的、文化的、歴史的な要因によって形づくられていることを思い起ささせる。愛情、喪失、喜び、悲しみといった感情は誰もが持っているもので、個性を超えて分かち合えるものなのである。そして私たち一人ひとりの物語はより大きな物語の一部を形作っていることを再認識させられる。
オクバロ氏は、自分の著書が沖縄コミュニティや他の日系人に与えたインパクトをどれくらい認識しているのだろうか。他の移民の物語と混同されることもあるかも知れないが、マサテルさんの軌跡は、より良い生活を求める人々が直面する困難と勝利の証言でもある。
彼は職業の選択において幾つかの失敗をしたにもかかわらず、多くの移民と同じように、子供のためにより良い将来を築き上げた。ブラジルに残ることを選択したマサテルさんは、子供たちにポルトガル語を学ばせ、ほとんどのブラジル人と同じようにカトリックの信仰を取り入れるよう勧めたという。そうすることで、一家は文化的な距離を縮め、ブラジル社会に溶け込めることができ、子供たちはより有望な機会を与えてもらえると信じていた。
当時の期待と歴史的な背景を考えると、兄弟たちは満足のいく人生を送ることができたと、オクバロ氏は語る。兄弟のほとんどは経済学部を卒業し、姉妹の1人は法律を学び、他の2人の兄弟は大学を卒業していないが、個人的にかなりの成功を収めている。
物語を通じて人と人がつながる能力は人類固有のものである。マサテルさんの物語を共有することで、コミュニティの絆は強化され、私たちはもっと大きなものの一部であることを感じさせてくれる。
マサテルさんのストーリーは、ユニークであるものの、ウチナーンチュだけではなく、他の多くの内地(本土出身)の移民にとっても同じように感じられ役に立つであろう。
注釈:
1.直訳
参考文献
ジョルジ・J・オクバロ、『O súdito: (Banzai, Massateru!) 』(臣下: マサテル、万歳!)、サンパウロ:テルセイロ・ノーメ出版社、2006年。
ジョルジ・J・オクバロ、『A hora das vitimas 』(犠牲者の時)、サンパウロ:エスタダォン、2024年7月30日。(2024年11月25日アクセス)
© 2025 Meiry Mayumi Onohara