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内山雄治選手 — その2

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内山雄治の経歴

薩摩琵琶を演奏する内山雄治

内山雄治は、1895年、父・内山英保、母・シズのもとに長男として生まれました。1913年頃に慶応商工学校(現在の慶応高校)に入学し、ここで野球経験を得たと思われます。同高校は1916年に全国優勝をし、2023年には107年ぶりの優勝を果たしました。生きていたら内山雄治氏はきっと喜んだことでしょう。

また、1914年に慶応大学の野球チームがバンクーバーにやってきた時の歓迎会では、その歓迎会で内山は、当時流行の薩摩琵琶を演奏し、その旨の新聞記事記載が残っています。

バンクーバーに渡航した内山は、神奈川県の原富三郎氏の生糸の輸出を手掛ける「原合名会社」のバンクーバー駐在員となりました。原合名会社は雄治の父親の、英保氏も一時雇われていたことがある会社でした。

そして内山は、1914年から1915年にかけ日本体育倶楽部(通称、バンクーバーニッポンチーム)に所属しました。同時期に、小生の伯父がバンクーバー朝日に所属していたので、内山と対戦していたのではないかと推測します。

日本体育倶楽部は、その後解散しましたが、1920年に内山はバンクーバー朝日に入りました。その年の野球シーズンが終了後、内山は、米国のシアトルミカドチームの日本遠征に監督として同伴をしました。

一方、バンクーバー朝日は1921年の野球シーズンが終わると日本遠征団を結成しました。内山は、前年の遠征経験が評価され、監督兼選手として同伴をしました。この時の遠征については、日系の邦字新聞『大陸日報』に1921年9月28日から1月17日にかけ第19編にわたって連載投稿された内山による遠征手記に見ることができます1

1921年に日本遠征したバンクーバーのオールスターチーム。内山選手は右から4番目。

1923年、内山は広島県出身の沖信みやこさんと結婚、バンクーバーで二人の子供に恵まれました。その後、日本へ帰国し、鎌倉で魚介類の国際貿易に従事、さらに3人の子供をもうけました。最後の子供が、昭和8年生まれの保男でした。

内山は生前、息子の保男へ自身の写真や書類などを引き継いでいたようですが、保男は終活で、僅かな写真を残し全て廃棄をしてしまったそうです。

鎌倉老童軍

鎌倉に居を構えた内山は、鎌倉の野球クラブ「鎌倉老童軍」に所属しました。すでに破棄されてないのですが、内山氏が自ら老童軍の野球活動を新聞に仕立て、野球仲間に配っていたというほどの入れ込み具合だった。

鎌倉老童軍(昭和3年頃)出典:大佛次郎記念館

鎌倉老童軍は、大正末期に創設されたチームで、内山氏が参加した当時、作家の久米正雄が監督として率いたほか、高名な小説家の大佛次郎や里見弴、小林秀雄、今日出海、サトウハチローなど多くの文人が参加していました。1938年には、東海地区代表(当時)として第7回都市対抗野球大会に出場し、異色のチームとして注目されました。初戦の全台北戦では守備が乱れ10対1で敗れてしまったものの、「投手の調子が良ければ、あるいは大物を食うかも」とも言われていました。

内山が鎌倉老童軍で活動を続けるこの時期、日本では野球が大衆へ普及するころで、内山は、その大きな流れの中にいたといえるでしょう。

なお、内山は、英語力と野球経験を買われ、その頃やってきた多数の米国野球チームの日本遠征団の応接と対応にも駆り出されていたそうです。

鎌倉ローンテニス倶楽部

また、内山は、バンクーバーにいた時から野球をする傍ら、日本人庭球倶楽部に属しテニスもしていたそうです。日本へ戻ってからも名門の鎌倉ローンテニス倶楽部にも所属し、テニスをしていました。鎌倉駅の裏手に三つのコートを持つ鎌倉テニス倶楽部には、70数人のメンバーがいました。その中、もっとも多くを占めるのは文士(新聞人も含む)で、その他鐡道省の御役人、海軍士官、会社員、町会議員、実業家、学生と云ったように様々な階級が一緒に集まって活動を行っていました。鎌倉老童軍でも一緒だった作家の大佛次郎もメンバーだったようです。

殿堂入り記念メダル授与

以上のような経歴を踏まえ、バンクーバー朝日の2003年カナダ野球殿堂入りから21年、2005年のブリティッシュコロンビア(BC)州スポーツ殿堂入りから19年たった2024年3月18日、春の桜の開花を迎える古都鎌倉で、内山雄治の殿堂メダルが家族へ授与されました。記念メダル授与式は鎌倉市役所の近くにあるGarden House Kamakuraで行われ、内山家ご遺族3名が参加されました。式典ゲストとして、他の朝日選手遺族や関係者が、近隣や、遠路、京都や滋賀からも集いました。授与式には、BC州スポーツ殿堂、カナダ野球殿堂から、それぞれ祝辞が寄せられ、メダルと共にご遺族に渡されました。

内山の孫娘、中村奈保子さんのメールの一部を紹介します:

「… 祖父が野球選手であったことも知らなかったため、今回のことは驚きましたが、孫としても大変嬉しく思っております。

たくさんの資料を送ってくださり、誠に有難うございます。情報量に圧倒されていますが、よくぞここまでお調べになったと驚くとともに、祖父に関わることを教えていただけたことに感謝致しております」。

また、中村さんの従兄が、内山は、バンクーバー朝日の元選手であったサリー中村が日本で結婚式を挙げた際、仲人を務めたと教えてくれました。下記はサリー中村さんの息子・修さんより頂いた写真です。

新郎新婦の左右にいるのが内山夫妻で、帰国後もバンクーバー朝日時代の繋がりを続けていたようです。

こうして、ご遺族の喜びの中、内山雄治遺族探索の旅を終えることになりました。ようやく栄誉の花が咲きました。ご本人は、夢にも思わぬことだったでしょう。

残り4名の未渡しメダリスト

現在もまだ下記4名の未渡しメダリストの家族探求が残っています。(*丸括弧内の年は、朝日に所属をしていた年)

  • K. Endo(1938年)― 鳥取県出身(推定)。1972年の時点でウイニペグ在住。
  • Barry Kiyoshi Kasahara [バリー笠原清] (1919年~1923年)― 両親は横浜出身。1942年にヘイスティングス・パークに送られ、そこで死去。バンクーバーのマウンテン・ビュー墓地に埋葬されている。
  • Yoshio Miyasaki [宮崎よしお] (1925年~1926年)― 出身県不明。日本に帰ったと思われる。
  • Dr. Henry Masataro Nomura [ドクター野村政太郎] (1919年~1929年)― フォレスト・メモリアル墓地に埋葬。 妻はロベンダ・ハイディンガー。

この4名の家族たちにも、小生の得た感慨深さを感じてほしいと思います。何か情報があれば、ぜひご一報ください。

* * * * *

未渡しメダリスト選手家族探索を始めて今年で10年。この旅を通して、国を超えての野球文化のもつ影響の広さを、つくづく感じさせられました。この10年間の出来事が一過性のものではなく、今後も継続的に記憶され祝福されることを願っています。

最後になりましたが、日本側では、彦根の松宮哲さんの資料提供により、今回の探求の裏付けとなりましたので、大いに感謝を申しあげます。

注釈:

1. バンクーバー朝日研究仲間の松宮哲氏(バンクーバー朝日の初期会長松宮外次郎氏の孫)が、その遠征記録を短くまとめたものを小生が英訳(”1921 Vancouver Asahi’s Tour to Japan”)をし、アメリカ野球学会(Society for American Baseball Research)に投稿。新刊書籍(編書)「Nichibei Yakyu: US Tours of Japan, 1907-1958」に収録された。この書籍は2023年、アメリカ野球学会よりアメリカ野球学会野球研究賞(SABR Baseball Research Award)を受賞した。

 

  *本稿は、「月刊ふれいざー」(2024年3月号)の掲載記事を加筆修正したものです。

 

© 2024 Yobun Shima

野球 カナダ メダル 戦前 スポーツ バンクーバー朝日(野球チーム)
このシリーズについて

カナダの伝説の日系人野球チーム、バンクーバー朝日は、2003年にカナダ野球殿堂入り、2005年にBC州スポーツ殿堂入りを果たした。しかし、1941年に戦争が勃発しチームが解散してから既に60数年たっていたため、多くの選手またはその家族と連絡が取れず、殿堂記念メダルの多くを引き渡すことができないままでいた。

バンクーバー朝日の最初の選手だったライターの叔父、嶋正一もその一人だった。退職後、偶然それを知った嶋氏は、バンクーバー朝日のことだけでなく、ブリティッシュコロンビア州の歴史など様々な資料に目を通した。その後、未渡し殿堂メダリストであるバンクーバー朝日の元選手やその家族らを探し始めた。このシリーズでは、今までの調査の過程だけでなく、元選手やその家族について紹介する。

詳細はこちら
執筆者について

嶋洋文は戦後の京都で生まれ育ち、その後、東京の国際海運会社に勤めた。彼の祖父母と3人の息子たちは、1907年ごろから順次カナダに移住。父は、1914年にバンクーバーで生まれた。1930年代までに、カナダ残留を選んだ1人の息子を除き、家族は順次日本へ帰国した。

定年を迎えた2007年頃、伯父の正一がバンクーバー朝日の選手だったことを知り、そのきっかけでバンクーバー朝日の研究調査を始めた。現在は、ブリティッシュコロンビア州スポーツ殿堂の依頼を受け、バンクーバー朝日の選手やその家族、関係者からの協力を得て、殿堂メダルを受け取っていない選手やその家族を探すボランティア活動を続けている。


(2024年8月 更新)

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