Discover Nikkei Logo

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2024/8/7/nihei-toshiko/

2002年オーストラリアに移住 — 二瓶利子さん

コメント

夫婦でケアンズに旅行へ

戦争への許せぬ思い

数年前に現地に移住した友人からの紹介で、日本からゴールドコーストに移住した二瓶利子さんへのオンライン取材が実現した。利子さんは22年前の2002年、夫婦で神奈川県から同地に移住、11年に夫が亡くなった後も引き続きゴールドコーストに長女の由季子さんと暮らしている。

まずは、4歳の時に太平洋戦争が始まった利子さんの戦争体験について聞いた。

「私は群馬県の農村地帯で生まれ、百戸あまりの集落で育ちました。戦争が始まってからものどかな毎日で、兄や友達と魚を獲ったり、野山を走り回ったりして遊んでいました。ところが終戦間近になってから、だんだんと敵機が飛んでくるようになり、昭和20年(1945年)になると登校途中にも敵機から隠れるために橋の下に身を潜めたりすることが日常的になりました。

そして8月14日からまさに終戦を迎える日にかけての深夜、サイレンがけたたましく鳴る中、私たち家族は庭の防空壕に向かったのですが、入り口に焼夷弾が落ちたため、河原へ逃げたのです。そこで見上げると、焼夷弾の光がまるで花火のように夜空で炸裂していました。飛行機がいなくなった後、15日の早朝に私たちは家に帰りましたが、家は焼かれていました。そして翌日、天皇陛下が(ラジオで)終戦のお言葉を述べられました。

なぜ、戦争が終わるなぜ、終戦が告げられようとしていた前日にあのような目に遭う必要があったのか、なぜ私たちの田舎町を標的にしたのか、当時、子どもだった私は釈然としませんでしたが、実は5キロほどの場所に火薬所があり、敵機の標的はその火薬所だったようです。敵機はそこから帰る途中で、残った焼夷弾を私たちの上空に落としたのだと聞きました。

我が家の斜め前の家では、おばあちゃんが東京から租界していた孫二人をかばったままの姿勢で真っ黒になって焼け焦げて亡くなっていました。その二人は昨日まで一緒に遊んでいた友達でした。どうしてこの子たちたちが死ななくちゃいけないのか、本当に戦争が憎く、腹が立って仕方ありませんでした。しかも戦後、ジープに乗ったアメリカ兵がやってきて、焼け跡を見て笑っていたのです。悔しい思いで胸が張り裂けそうでした」。

80年近く経った今でも、焼夷弾から逃げていた当時のことが映像のようによみがえってくると利子さんは話す。このような戦争の辛い経験もあり、海外に出ることはないだろうと思っていたと振り返るが、オーストラリア移住は夫の決断だった。

夫婦で豪州へ移住

「主人は台湾で生まれ育った日本人でした。台湾の学校では母国の日本がいかに素晴らしい国かということを教わっていたそうです。しかし、実際、帰国した日本では(外地から戻ってきたということで)いじめに遭ってしまったのです。主人はそれまで自分が思い描いていた日本とは違うとショックを受け、いつか日本を離れたいと思うようになったと話していました。

そして、長女がシドニーの大学に行っていたこともあり、『オーストラリアだったらいいのではないか』という彼の発案で、私たちは22年前にシドニーに移住してきました。最初私は日本に帰りたいと思っていましたが、ゴールドコーストに転居してからが、主人も私もここ(ゴールドコースト)が気に入り、本当に楽しい日々を過ごしました。

「オーストラリアに骨を埋めたい」と言って亡くなった夫のお墓の前で。

その後主人は癌を患い、余命宣告をされた際には『豪州に骨を埋めたい』と、家の近くのメモリアルパークを一人で見に行き『ここに墓を作って欲しい』と私に言いました。そして願い通り亡くなった後はそこのお墓に入ったのです。生前主人と、一年間は毎日お墓に行くと約束していましたので、雨の日も風の日もお墓参りを続け、今も月命日のお墓参りの帰りには主人の大好物のお寿司を娘と一緒に食べて、やさしかった主人を偲んでいます」。

墓守以外にオーストラリアに留まった理由を利子さんに聞くと、次のように答えてくれた。

「気候が良いこと。そして人ですね。干渉はしないけれど、何かあったらすぐに助けてくれます。以前は登山が趣味だったのですが、険しい山道の岩場で自分の足を持ち上げられず立ち往生した時、近くにいた屈強な若者が『ここを踏み台にして登れ』と、自分の太腿を差し出してくれたのにはびっくりしました。

ショッピングセンターの駐車場で車のタイヤがパンクした時は、見知らぬ人がすぐに寄ってきてタイヤを取り替えてくれました。また飛行機に乗る時も、若い人が私の荷物をさっと持ってくれたり、電車ではすぐに席を譲ってくれたりもします。あちこちで自然な優しさが溢れていて本当に住みやすいです。日本より(居場所は)ここだと実感しています」。

日本人としての誇り

さて、南半球から眺める日本はどうだろうか。

「変化が必要なのに、日本の政府はいつまで経っても変わらないと思いますね。文化や伝統芸術などは守るべきものなので変わらなくていいのですが、政治の問題は自分たちにかかわることだと真剣に変化に向けて向き合ってほしいです。そういう意識のない日本人にはイライラします。お金にこだわりすぎているようにも感じますね」。

次にゴールドコーストの日本人コミュニティーについても聞いてみた。

長女、由季子さんの笛に合わせて詩吟のパフォーマンスを披露。

「私たちが来た当時は、日本人会も活発でした。私も以前は日本文化を紹介するボランティアで、折り紙を教えたりしていました。一時は総勢2万人の日本人がいるとのことでしたが、その後、物価が上がってからは随分と減って、マレーシアをはじめとする東南アジアに移って行った方もいるようです」。

医療事情についても聞くと、オーストラリアの永住権保持者である利子さんは、75歳以降メディケアを利用し、そのサービスには満足しているようだ。

「メディケアを利用すれば、民間の病院は別ですが、公的な病院での診療費などは無料です。バスも無料です」。

永住権は、市民権を持つ娘の由季子さんがスポンサーしてくれたと話す。

最後に、オーストラリア移住後に利子さん自身が変わったことについて話してもらった。

「日本にいた時よりも優しくなることができました。以前は理屈っぽい性格だったので、二人の娘たちの子育ても理屈で固まっていたのです。でも、この国に移住して人の優しさに触れ、自分でも驚くほど優しい性格に変われたと思っています。一方で、日本人としての誇りを背負ってこの国に来ましたから、日本人として恥ずかしい言動や行動は絶対にしないと心に決めています。主人もそうでした」。

幼い頃の戦争体験、台湾育ちの夫とのオーストラリア移住、そして日本には戻らずにオーストラリアで夫の墓を守っていくと決めた現在まで、利子さんは実に整然と分かりやすく説明してくれた。そんな彼女が取材を通してインタビュワーの筆者に与えた印象は、まさに「凜とした日本人女性」。そして、オーストラリアの人々も、彼女の真っ直ぐな姿勢から「日本人としての誇り」を感じ取るに違いないと思えたのだった。

 

© 2024 Keiko Fukuda

オーストラリア 移民 移住 (immigration) 移住 (migration)
執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
Discover Nikkei brandmark サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら

ディスカバー・ニッケイからのお知らせ

動画募集中!
「召し上がれ!」
ディスカバーニッケイでは、現在ブランディング動画を作成中で、皆さんにも是非ご参加いただきたいと考えております。参加方法については、こちらをご確認ください!
ニッケイ物語 #13
ニッケイ人の名前2:グレース、グラサ、グラシエラ、恵?
名前にはどのような意味があるのでしょうか?
ディスカバーニッケイのコミュニティへ名前についてのストーリーを共有してください。投稿の受付を開始しました!
新しいSNSアカウント
インスタ始めました!
@discovernikkeiへのフォローお願いします。新しいサイトのコンテンツやイベント情報、その他お知らせなどなど配信します!