『太陽の子』があぶりだす
『太陽の子』(集英社、2022年出版)というタイトルのノンフィクションを初めて店頭で見たとき、興味をひかれた。サブタイトルに「日本がアフリカに置き去りにした秘密」とあり、それがアフリカで日本人と現地の女性の間に生まれた何人もの子どもだったからだ。
1970年代から80年代にアフリカの中央部、コンゴ共和国(当時はコンゴ人民共和国)で鉱山事業に携わった、日本を代表する鉱山企業「日本鉱業」のもとで働いていた何人もの日本人男性が、現地の女性との間に子どもをつくった。しかし、父親はやがて日本に帰国、子どもたちは母親の手に残されたままになり今日に至った。いうならば、アフリカで置き去りにされた“日系”でもある。
このコラムでも以前紹介した、中国の残留日本人孤児や戦争を機にフィリピンに残された日本人と現地の女性の間に生まれた日系の子孫の問題は知られているが、戦後の1970、80年代にコンゴに駐在していた日本人と現地女性の間に生まれた子どもたちの存在は、まったくといっていいほど知られていない。
「朝日新聞記者、ルポライター」の肩書きをもつ著者の三浦英之氏は、『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』(第13回開高健ノンフィクション賞)など、新聞記者の枠を超え、これまでにもいくつもの優れたノンフィクション作品を著している。誰も知らない事実を丁寧に追い続け、世の中に知らしめたという点により、『太陽の子』も「新潮ドキュメント賞」を受賞するなど、高い評価を得ている。
海外メディアが報じる
話は、三浦氏が朝日新聞のアフリカ特派員として南アフリカに駐在していた2016年3月に遡る。当時の彼の投稿サイト・ツイッター(現在のエックス)に、次のような投稿が寄せられた。
「朝日新聞では、1970年代コンゴでの日本企業の鉱山開発に伴い1000人以上の日本人男性が現地に赴任し、そこで生まれた日本人の子どもを、日本人医師と看護師が毒殺したことを報道したことがありますか。」
ショッキングなこの投稿のもとになったのは、「フランス24」というフランスの国際ニュース専門チャンネル放送とイギリスの公共放送BBCだった。
報道批判なのか情報提供か、意図のはっきりしない投稿だが、これまで聞いたことのない内容に、日本人の子どもの存在と毒殺について、その真偽を確かめるため著者は現地での取材をはじめ、その後日本でも関係者を訪ね歩く。そして、その過程で明らかになった事実やメディアや記者のあり方などに対する著者の心情をあわせてつづったノンフィクションが本書である。
動乱後のコンゴに進出
近代以降のコンゴの歴史を振り返れば、19世紀末にアフリカがヨーロッパ列強の植民地争奪の的となるなか、ベルギー国王のレオポルド二世が、王の私有地としてコンゴ自由国を誕生させた。レオポルドは残虐きわまりない手段で、現地の労働者を搾取し、ゴムや象牙を略奪した。
これが世界の非難を浴び、やがてベルギー政府の直轄植民地となり、20世紀に入り鉱物資源が発見されると工業化が進むが、コンゴ人労働者によるデモや暴動が頻発する。1960年ベルギー領コンゴはコンゴ共和国として独立。しかし直後にコンゴ軍の暴動が発生し、アメリカ、ソビエトも介入するコンゴ動乱が勃発。最終的に軍人モブツが二度目のクーデターを起こし独裁的な大統領となる。
本書によれば、このモブツ政権の下、1967年、当時の日本鉱業が鉱業協定を結び、現地に合弁会社をつくり銅鉱山の開発をはじめた。日本からは同社社員や建設会社の社員のほか医師などが派遣され、約670人の日本人が生活をはじめ、夏には盆踊りなど日本的行事も開かれたという。
現場で働く日本人は、プレハブ造りの簡素な宿舎で暮らし、近くの村の飲み屋へ行き、なかにはそこで女性と知り合りやがて結婚し子どもをもうけたようだ。売春行為もあり、会社では社員の性病にも気を遣っていたという。
こうした生活のなかで進んでいった鉱山事業だが、コンゴ経済の崩壊と治安の悪化などにより1983年、日本側は現地から撤退した。
日本人残留児を訪ねて
著者はかつて鉱山のあったコンゴ民主共和国の旧カタンガ州の町に向かう。そこには確かに、「ケイコ」や「ユミ」や「ケンチャン」や「タカシ」など日本人の名前をもつ、コンゴ人にしては肌の色の濃くない人たちがいた。彼らはみな日本人の父親と現地の女性の間に生まれたが、父親は日本に帰ってしまった、“日本人残留児”だった。
同じ境遇にある者同士で「子どもたちの会」をつくり、また彼らを支援する日本カタンガ協会会長の田邊好美氏やマリアの宣教者フランシスコ修道会の佐野浩子氏らの協力で、「日本人レストラン」を運営していた。その開設資金を提供したのは、フィリピン残留日本人孤児の支援をはじめ日系人へのさまざまな援助をしている日本財団会長の笹川陽平氏だった。
日本人残留児たちのほとんどが貧しい暮らしをし、幼い頃は、「日本人、日本人」と言われて差別された。しかし、日本の血を引いていることを否定的に捉えることはなく、日本人の父の思い出を語り、今は日本にいるだろう父親への思慕を抱き、できれば父親に会いたいと願っていた。
この気持に応える意味もあり、著者は日本人の“父親”たちについて調べようと、日本でも取材にあたる。しかし当時日本鉱業の社員として現地に駐在していたある男性は、著者の示す事実を端から否定し、著者がだまされているとさえ言う。が、ある元幹部や現場にいたある社員は、この事実を具体的に認める証言をした。
一方著者は、BBCなどが放送した、日本人医師らの日本人の子どもの殺害が事実なのかどうかを探り、それが事実と反するという結論を得た。
日本人の父親への思慕
取材ができた孤児は32人だが、全体として50人から200人はいるのではないかという。ある孤児は、父との再会を夢見て、日本にいるだろう父親に手紙を送り続けた。そして、著者に「ぼくのお父さんを探してくれないか。うれしいな、生きる気力がわいてきた」と言った。
日本での取材の際に、著者がその手紙の宛先の住所を訪ねると、そこにはかつて鉱山会社の家族寮があったことがわかった。その父親はどうやら日本にも家族があったようだった。さらに、その父親はすでに亡くなっていることがわかった。アフリカに戻ってその事実を著者は断腸の思いで伝えた。
日本人残留児のほとんどが40歳を超えているが、いまもなお父親との再会を望んでいる。父親は70代、80代だからまだ日本のどこかにいることは十分考えられる。しかし、手がかりとなる情報を持っている人はほとんどない。また、父親やその関係者からは、「いまさら、そんなことをされたら迷惑だ」という声もでてくることも考えられるし、実際そうした声を著者は聞いている。その心情はわかるが、そう突き放すことは、悲しいほどの自分勝手に過ぎない。
アフリカで、差別され、父親もなく苦しい生活のなかで生きてきて、なお、父親を恨みもせず、その所在をしりたい、会いたいと願う日系コンゴ人である子どもの側の気持ちを考えたとき、なんらかの形で支援をしたいというのは、関係者のみならず日本人として、また人として自然なものではないだろうか。
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