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深い静けさ

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クラシック音楽で、最も有名とは言わないまでも、最も知られた作品のひとつに挙げられるのが、ベートーヴェンの交響曲第5番《運命》です。この名曲で印象的なのが、あの出だし。一瞬の静寂があり、その後に4つの音が爆発します。ジャジャジャジャーン! 私がこの交響曲を初めて演奏した時、指揮者が強調したのは、あのダイナミックな出だしで最も重要なのは音の前の静寂(期待)であり、音そのものではないという点でした。そして、それはまさにベートーヴェン自身が意図したことでもあって、だからこそあの4音はアクセントのない弱拍で始まるのです。言い換えれば、この有名な曲は意図的に完全な沈黙の瞬間――まったくの無音――で始まり、その直後にあの激しい4音が噴出するわけです。

母と筆者、2006年

ここ何年かの間、私は沈黙の純然たる力を思い知らされてきましたが、それは多分に日系二世の母が守り通した数々の秘密に関係があります。大人になって初めて知ったのは、母とその家族が第二次世界大戦中にアーカンソー州の強制収容所に入れられ、さらにアメリカと日本の人質交換のために船で横浜へ送られたことです。その後、両国は苦い裏切りに満ちた戦争に突入しました。当時十代だった母は生まれながらの米国市民でしたが、そのことは当局にとって重要でなく、アメリカは日本、上海、香港や、当時日本によって占領されていたアジアの各地域に取り残された米国市民の帰還に躍起になりました。それで人質交換が行われました。つまるところ私の母は、自分より少し白い肌をした同じ米国市民と交換に、家畜のように取り引きされたのです。

母が日本へ引き渡された詳細を、私は最低限しか知りませんでした。母とその家族がアーカンソー州から東海岸へ列車で移送され、そこからアメリカ政府が大勢の米国市民を国外追放するために用立てたスウェーデンの外洋客船MSグリプスホルム号に乗せられたのは知っていました。その後の調査で、その船は北米から南米大陸沿いに南下し、リオデジャネイロに寄港して食料や水などの必需品を補給。そこから大西洋を横断して南アフリカのポートエリザベスを目指し、さらにインドのゴアへ行って、そこで実際の人質交換が行われました。

その悲惨な旅について、母は一度も話したことがありませんでした。MSグリプスホルム号が敵国の潜水艦が潜む危険な海域を横切る時、怖くなかったのか。自国に裏切られたと感じたり、アメリカの地を再び踏めるか不安になったりしたのか。そして、船が日本へ近づくにつれ、一度も訪れたことのない国で生きなければならない状況をどう思ったのか。母の過去には私が知りたくてたまらないことが数多くありましたが、母は私たち兄弟に、あの時代のことは絶対に話題にしてはいけないことをはっきりさせていました。母にしてみれば、すべては昔の出来事であり、いわゆる「しかたがない」ことだったのでしょう。

2013年に母が他界した後、私は何日も、何週間も、何か月も深い悲しみに沈み、同時に絶え間のない後悔の念にさいなまれました。母があまりにも多くの秘密を墓場へ持っていってしまったため、私は母の激動の人生をうわべしか知らないことに気づいて、ひどくあぜんとしたものです。母は多大な苦しみを自分の胸の奥深くにしまっていたので、私は自分が何を知らなかったかさえ、分からないありさまでした。

そんな中、フェイスブックという魔法のおかげで、最近私は家族の歴史を共有する同じ日系三世のシャロン・オダ氏と出会う幸運に恵まれました。私たちは、彼女の父親(とその家族)と私の母(とその家族)が同じ船に乗り、1943年の秋に一緒に日本へ送られていたことを発見したのです。何という信じがたいめぐり合わせでしょう!

シャロンは親切にも、彼女の父親とおじが第二次世界大戦中の悲惨な経験について書いた手記を送ってくれました。おじさんは日記をつけていて、インドで人質交換が行われた後、アメリカの人質たちはグリプスホルム号から日本の交換船、帝亜丸に移され、十代の若者は外のデッキの二段ベッドで眠らなければならなかったことを覚えていました。しかも、当時15歳か16歳だったハワイ出身の少女が隣のベッドにいたことまで。母はホノルル生まれの当時16歳で、乗船名簿を調べたところ、帝亜丸に乗っていたその年頃のハワイ出身の少女は2人しかいなかったことが分かりました。

シャロンと私は感動し、彼女のおじさんと私の母が80年前に、インドからシンガポールとマニラを経てはるばる日本へ帰港した帝亜丸でお互いを知っていた可能性に思いをはせました。おじさんは、ひと月の間、船のデッキで眠らねばならず、どれだけ寒かったかを書き記していました。与えられるバナナは青く、温めようとポケットに入れておいても、ついぞ熟れることがなかったといいます。常に空腹で、提供されたごはんには虫が入っていたので、取り除かなくてはならなかったことも覚えていました。

こうした詳細を母は決して語らなかったので、それを他人の口から聞かされて、かたくなだった母の沈黙がさらに深まったように感じられました。アメリカから日本へ送還された際の苦痛に満ちた船旅について、母が語ろうとしなかった――というより、正確には語れなかった――事実が多くを物語っています。

今、母のことを思い返すと、戦争についての沈黙が常に私たち家族の中で大きく不気味な存在感を持っていたことに気づかされます。実際、年を重ねるほど実感するのは、母が守った秘密(とそれに伴う沈黙)こそが、私にとって母との関係でおそらく最も重要だったということです。

母と筆者、1969年

とはいっても、母が思いやりや愛情に欠けたよそよそしい人だったと言いたいわけではありません。むしろ正反対です。母は4人の息子に人生を捧げ、数えきれない犠牲を払って、自分が持てなかった機会のすべてを息子たちに与えようとしました。私は幼い頃からホノルルで愛情たっぷりに育てられ、幸せなことに、両親が子供たちに安全で快適な中流階級の生活を与えるのに経済的に苦労した時代があったことも知りませんでした。母にまつわる最初の記憶は、桃太郎や浦島太郎、そしてイソップ童話やアンデルセンとグリム兄弟のおとぎ話を、優しく心地よい声で読み聞かせながら寝かしつけてくれたことです。母は私に無数の物語を読んでくれましたが、自分の過去についてはどんな話もしてくれませんでした。

その沈黙は何十年も続きます。そうして80代になった母に認知症の兆しが見え始めた時、タガが外れました。ある夜、妄想にとらわれて攻撃的になった母は、片手で歩行器をつかんでよろめきつつも、もう片手で包丁――それも鶏の骨をすぱっと断ち切れるほど切れ味のいい日本製の包丁――を振り回しながらキッチンから飛び出てきました。家を取り上げようとしていると言って息子たちを包丁で脅す母の目には、捕らわれの動物のような野生が宿っていました。

母を亡くした数年後、ランドールと私は兄弟でロサンゼルスの全米日系人博物館を訪れ、母とその家族をしのんで慰霊帳に印を押しました。それから2人で博物館を見学し、アメリカの強制収容所の小屋を再現した展示の前で足を止めました。ランドールと私はその展示をじっと見つめ、深い物思いにふけりました。しばらくして、私は問いました。「母さんの一家7人全員がこの狭い部屋で暮らしてたなんて想像できる? 簡易ベッドを7台入れたら、他にはまったくスペースがないのに」

黙ったまま、私たち兄弟は同じことを考えていました。自分たち家族が同じように収容されたら、きっと耐えきれなかっただろうと。少しして博物館をあとにしながら、ランドールが言いました。「あんな風に閉じ込められたのが僕たちだったら、気がおかしくなって殺し合ってたかもな」

母と筆者、1993年

ベートーヴェンの交響曲第5番は、あの出だしこそ有名ですが、作品全体は必ずしも知られているわけではありません。陽気な第1楽章のあとには、抒情的な第2楽章、物悲しい第3楽章が続き、金管楽器がはつらつと活気に満ちて盛大に鳴り響くフィナーレとともに、とても誇らしげに曲が終わります。中でも特筆すべきは、この交響曲が短調で始まるにもかかわらず、長調で終わるところです。ベートーヴェン自身はこう語りました。「多くの人は、短調の曲は必ず短調で終わらなければならないと主張する。違う! 喜びは悲しみに、太陽は雨に続くのだ」

苦しみや悲しみの雨に降られた子供時代の後、母の人生にあふれんばかりの喜びと太陽が降り注いだことを願っています。残念ながら、母が戦争中に受けたトラウマは大きな黒雲となり、地平線のかなたに居座りました。それでも中年から老人になる頃には、子供と孫たちが何の不自由もない、自分とは比べ物にならないほど多くの機会に恵まれた人生を送っているのを目にして、母は大きな喜びを感じたはずです。

興味深いことに、ベートーヴェンは聴覚を失った後に、最後の交響曲第9番を書きました。音のない世界に生きながら作曲した、人類の根源的な真実と共鳴する壮大なこの作品は、有名な交響曲第5番を超える傑作とされています。そして私は気づくのです。母の世界にあっても、深い静けさの中に人生の最も深く、最も込み入った真実が横たわっていることに。私たち兄弟にちゃんと聞こえるように。ただし、じっと耳を傾けたなら。

 

*このエッセイは『Kioku』(2024年2月)に掲載されたものです。

 

© 2024 Alden M. Hayashi

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執筆者について

アルデン・M・ハヤシはホノルルで生まれ育った日系三世で、現在はボストン在住。科学やテクノロジー、ビジネスに関する記事の執筆に30年以上携わり、近年は日系人の体験を物語として残そうと、フィクションやエッセイに筆を振るう。処女小説『Two Nails, One Love』を2021年にBlack Rose Writing社より上梓した。ウェブサイトはwww.aldenmhayashi.com。  

(2024年5月 更新)

 

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