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加柴律子さん〜米国書道研究会シアトル支部長 — その1

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17歳で渡米。21歳で結婚。以来、長年にわたり、寿司職人の夫の店を盛りたてながら、育児と仕事に追われる毎日を過ごしてきました。現在は書道の活動で、シアトル、ロサンゼルス、日本を飛び回ります。常に全力の加柴律子さん、そのパワフルな生き様に魅了されます。

* * * * *

家族と九州からアメリカへ渡る

生まれは熊本県熊本市。戦前、日本で教育を受けるためにアメリカから祖母と来日した「帰米2世」の母の娘として、6歳年上の兄、双子の兄と育った。九州の片田舎で、日系アメリカ人の母、クララさんは少し異質だったと言う。

いつも一緒だった双子の兄、真二郎さんと。真二郎さんは宇宙航空工学を専門とし、ロケットエンジンの設計に携わった

「周りはまだ敵国の人という目で見るような時分ですから。でも母はとても陽気な人で、ものすごくおしゃれでしたね。子ども時代はそれこそ、アメリカでフランス人形みたいな格好をしていたわけです。私もスカートばかり履かせてもらっていました」

母、クララさんと。歳を重ねてからも美しくヘアをセットし、赤いブレザーがお気に入りだった

小学低学年で両親の離婚を経験。祖母を頼り、熊本県人吉市に移った後、一家で福岡へ転居。クララさんは数年後、アメリカ人と再婚した。

母は、戦争によりアメリカに残った家族と引き離されていたため、律子さんは幼い頃から、「いずれはシアトルに帰るよ」と聞かされていた。ついに、律子さんが高校2年の時、1年先に留学生として渡米していた長兄の誠一さんと叔母の待つシアトルへ。

「母は日本が合わず、アメリカへ帰りたいと常々思っていたようです。でも、私は真逆。最初は本当に大変でした。福岡で私立の女子高校に通っていた私が、それまでハリウッド映画のイメージしかなかったアメリカの公立校にポーンと放り込まれたんですから」

特に英語には苦戦した。「1年遅れの学年に編入したものの、年下にもかかわらず身体の大きな同級生たちに圧倒されましたね」

当時のシアトルはまだI-5のフリーウェイもなく、物流も豊かとは言えなかった。日本の食材を扱う店はあるが、福岡から来た律子さんの目には戦後間もない頃と変わらないように映った。

「私にはアメリカは合わない。高校が終わったら、絶対にひとりで日本へ帰ると決めていました」

しかし、娘を日本に返したくない母は一計を案じる。兄ふたり、叔母と家族ぐるみで引き留められ、語学学校へと入れられてしまう。

「そしたら楽しかったんです。それでそのあとも、家の近くのコミュニティー・カレッジに通うことにしました」

そこで出会ったのが、後の夫、寿司かしばで今も現役の加柴司郎さんだ。「スクールボーイ、スクールガールというシステムがあって、寿司職人として働きながら学生ができたようです。7つ違いで、お兄さんという感覚でしたね」

司郎さんとの距離が縮まるきっかけとなった面白いエピソードがある。

「知人が、車を売りたい人がいる、どうやら良い車らしいって言うんで買ったんです。ビュイックのスカイラークでした。でも私、運転免許を持っていなくて……」

免許取得のために運転を教えてくれたのが司郎さんだった。「自動車学校に通うつもりでしたが、彼に習った人がみんな試験に合格しているよって周りの評判を聞いて、お願いすることにしました」

大忙しの日々を駆け抜けた40年

不安定な職業に思われた寿司職人との結婚に家族は大反対。そんな中、兄の誠一さんが「彼はすごく良い人だよ」と口にしたことが大きかった。

「私はお兄ちゃんっ子だったので、兄がそう言うなら、と。母もそれなら信頼できるって」。誠一さんは後にワシントン大学工学部教授として教鞭を執るが、当時は日本食レストランでアルバイトをしていた。

1970年に司郎さんと結婚。1971年、息子のエドさんが誕生した。現在、エドさんは寿司かしばと、その姉妹店に当たるタカイ・バイ・カシバのマネジメントを手がける。

左:日本からシアトルに戻る際、ハワイを経由し新婚旅行;右:義母(右)、義妹(手前)と共に司郎さんの故郷、京都での結婚記念撮影

翌1972年には司郎さんが自身の店、日光レストランをインターナショナル・ディストリクトにオープンしたが、律子さんはその時24歳。

1992年、シアトルのウェスティン・ホテル内で日光レストランが新装オープン

「何の経験もなかったので、どこかの店へトレーニングに行ったほうが良いかしらと聞いたけれど、『君は何もしなくていいよ』って言うんです。そうもいかないわよね……ってお手伝いに入ったら、もう最後ですよ」と笑う。

やがて日本でバブル景気に入り、日系商社、銀行等がシアトルにオフィスを次々と開設。駐在員がこぞって来店し、12部屋234席の店内が毎晩のように満室、満席という盛況ぶりだった。

律子さんも、夕方からエドさんを叔母に預け、店で働いた。とにかく忙し過ぎたと振り返る。

「生活に必死で、自動的に体が動いていた感じ。それが20年続いたの。よくやったなと信じられない思いです。おしぼりは持ち帰って、その日の夜に洗っていましたし。何も知らない私は、おあいそなんて言われても『はぁ?』という具合。経理は当然素人でしたが、支払いを遅らせないことだけが頭にずっとあって、一生懸命頑張りました」と胸を張る。

その一方で、1980年から昼はシアトル・タコマ国際空港で働いていた。まだ英語を話せる日本人が少なかった時代、世話好きだった母の影響もあり、何か自分にできることはないかと、大好きな空港で働くことを思い立つ。兄の誠一さんからは無理だろうと言われたが、どうしても外に出てみたくて、「1日数時間だけだから、ものは試しに」と説得した。

ユナイテッド航空退職時に、同僚たちから贈られた分厚いアルバムの中の1枚は、特に仲良しだったふたりと。律子さんの人柄が伝わってくる

空港の入国審査で、日本から来た便の乗客の通訳として勤め始め、1983年にユナイテッド航空によるシアトルからの日本定期便が就航すると、それを機にユナイテッド航空に入社。

「昔はほぼ団体旅行で、添乗員さんがみんなのパスポートなんかを全部預かり、ビザもお客さんはサインするだけ。だから、入国審査で何を聞かれてもわからない。審査官は決まった質問をしてくるとは限らず、冗談も言いますよね。お客さんは緊張して汗ダラダラで固まってしまい、怪しまれちゃう」

そこで間に立つのが律子さんの仕事だ。「腹巻きに現金を入れていたり、奥さんが荷造りしているから自分の荷物に何が入っているのか全然知らなかったり、アメリカ人にとって信じられないことばかり。私が全部説明しなくちゃいけなかったんです。本当に文化の違いには困ることがありましたね」。空港の仕事が肌に合っていたのだろう。以降2018年まで、ユナイテッド航空のVIPカスタマーサービス・スタッフとして勤務を続けた。

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*本稿は、『Soy Source』(2024年3月6日)からの転載です。

 

© 2024 Hitomi Kato

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執筆者について

東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。ニューヨーク市立大学シネマ&メディア・スタディーズ修士。2011年、元バリスタの経歴が縁でシアトルへ。北米報知社編集部員を経て、現在はフリーランスライターとして活動中。シアトルからフェリー圏内に在住。特技は編み物と社交ダンス。服と写真、コーヒー、本が好き。 

(2021年5月 更新)

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