1970年代から日系アメリカ人やアジア系アメリカ人について取材し、その成果をノンフィクションなどの書籍に著してきた、作家でエスニック文化の研究者でもある村上由見子さんに、アジア系アメリカをテーマとして長年、取材や研究をしてきたその足跡や意義などをきいた。
絵本作家、八島太郎との出会い
川井:アジア系アメリカ人や日系人に関して、村上さんがこれまで携わってきた研究や取材の歴史的な流れを教えていただけますか。
村上:私は大学卒業後、出版社で編集者をしていて「月刊絵本」という絵本研究誌を担当していました。1970年代当時は、ようやく絵本という媒体に注目が集まりはじめた時代でした。そんな時、アメリカに八島太郎という有名な絵本作家がいると知りました。伝え聞くところによると、戦前に亡命の形でアメリカへ渡り、戦後の1950年代にはアメリカで何冊も絵本を出版し、数々の賞を受賞、絵本界での地位を確立した人でした。
1976年、留学中の姉をアメリカに訪ねた際、ロサンゼルスに立ち寄り、八島太郎氏に会うことができました。翌年、再度渡米した折、本格的なインタビューをしましたが、日米を股にかけたドラマティックな人生には圧倒されるばかりでした。その時の聞き書きは「月刊絵本」(1977年9月号)に「ロサンジェルスの八島太郎」として掲載しました。また、1981年に出版された、宇佐美承著『さよなら日本 絵本作家・八島太郎と光子の亡命』(晶文社)は、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、当時大きな話題になりました。
八島氏はいわゆる「日系人」とは違いますが、アメリカにはこんな人たちが住んでいるのか、という驚きとともに、海外にいる日本人・日系人の存在へ関心が向いた最初でした。
その頃から日本でも「日系人」に目が向けられることが多くなり、数多くの本が出版されました。当時、面白く読んだのが、戦前の作家・谷譲次のアメリカ体験記『めりけんじゃっぷ商売往来』や『踊る地平線』の復刻版(1975、現代教養文庫)、星新一の父親の星一の人生を描いた『明治・父・アメリカ』(1978、新潮文庫)などです。日系二世トシオ・モリの短編集『カリフォルニア州ヨコハマ町』(1978、毎日新聞社)も夢中になって読みました。
日系人関係のノンフィクションでは、大谷勲『他人の国、自分の国 日系アメリカ人オザキ家三代の記録』(1980、角川書店)や、江成常夫『花嫁のアメリカ』(1980、アサヒカメラ増刊)など、写真家たちの出版も相次ぎました。自分でも日系人の歴史を調べ、学びはじめた頃です。
20代半ばは誰もが自分の人生に迷い、地に足がつかず、拠り所を求める時期で、私も同じでした。しかし日系人というテーマに出会い、あたかも自分の人生の手がかりを探すかのように引き込まれていきました。ただ、私はアカデミズムの研究者ではないので、初めから学者とは違う視点でアプローチしていきました。
一世たちの生の声を集める
川井:学者とはちがう、村上さんならではの方法として、このテーマを掘り下げるために具体的にどのような行動を起こされたのでしょうか。
村上:八島氏との出会いをきっかけに、アメリカの日本人・日系人に興味を持ったことで、1980年には単身ロサンゼルスに渡りました。日本の出版社を通してジャーナリスト・ビザ(Iビザ)を取得し、長期滞在が可能になったところで、まずは最初の一年間を自分の“放牧期間”とし、自由に動き回ることにしました。何ができるかは手探り状態でしたが、とにかく生身の人と会い、その肉声に耳を傾けよう、と決めました。基本はあくまでもフリーライター/ジャーナリスト的目線であり、「学問」や「研究」の道に進む考えはありませんでした。
初めは、ロサンゼルスに住む日系一世に話を聞くことから始めました。明治の日本人そのものが生きている、といった日系一世たちの話は実に面白く、ノートにせっせと書き留めました。当時、すでに80代、90代の一世たちでしたが、今思えば、その貴重な体験談を聞かせてもらえた、ぎりぎり最後の時期だったと思います。
また、UCLAの図書館には、70年代の日系アメリカ人リサーチ・プロジェクト(JARP)で日系一世にインタビューした膨大なリールテープが保管してあり、それもよく聴きに行ったものです。今はもうデジタル化しているでしょうか。
一世のほとんどは英語を話せませんでしたが、彼らの日常会話には、耳で覚えた英語の単語とお国言葉の方言が混ざっていて、そのユニークな言語空間には大いに魅了されました。ブロークンイングリッシュと広島弁や熊本弁の混ざった彼ら独自の話し言葉は、空中を浮遊していて、とらえどころがなく、それを活字にする難しさ、虚しさをかみしめたものです。
後になり、ヨーロッパやアジアのどこの国から来た移民一世も、拙い英語とお国の方言を交えた独特のコトバを駆使して生き抜いてきた、という歴史を知りました。今では、大学でもそうした初期移民の言語研究があると聞きます。
話を聞く中で、ボランティアで訪ねていた日系人の老人ホーム、「敬老ナーシングホーム」で、津田梅子の薫陶を受けたという、当時99歳の岡村品子さんと巡り合いました。津田塾大学(女子英学塾)五回生の岡村さんは英語も流ちょうで、ユーモアにあふれ、記憶力も抜群でした。今のうちに話を聞いておかないと、という思いでインタビューを始めました。その時の聞き書きは、津田塾大学へお渡しし、卒業生オーラル・ヒストリーの小冊子となりました。
品子さんが102歳で亡くなった後、日米の歴史を生きたこの一家の波乱に満ちた足跡をきちんと記録に残したい、という思いにかられました。そこから6年の取材を経て、『百年の夢 岡本ファミリーのアメリカ』(1989、新潮社)を書き上げました。
日系人でも、東部ニューヨークに渡った人々、ビジネス関係者の歴史はもっと研究されていいですね。同じころ、ハル松方ライシャワー著の『絹と武士』(1987、文芸春秋)が出版され、明治初期にニューヨークでシルク・ビジネスを成功させた新井領一郎の生涯も詳しく紹介されました。
日米間の歴史の荒波の中で
川井:こうした取材を重ねていく中で、どのような点にもっとも惹かれたのでしょうか。
村上:日系人への関心は、初めはやはり自分自身に連なる日米間の歴史にあったと思います。日本の現代史、アメリカの現代史は、それぞれ別個に考えがちですが、明治期からの移民の開始によって、日米間を人やモノが行き交い、異文化が衝突し、政治や経済をも動かし、戦争をも引き起こす、という、密接な関係性が生まれました。
1980年当時、私と同世代の日系三世たちが中心となって、戦時中の日系人強制収容に対する賠償問題が浮上していました。収容経験のない、戦後生まれの三世たちがこの問題に目覚めたのは、やはり60年代のマイノリティーの異議申し立ての時代から受け継がれた精神でした。
特に三世たちは、アメリカ憲法に違反する強制収容措置という黒い歴史に憤りを覚えるとともに、「二世の両親たちは強制収容所のことをまったく話してくれなかった」という悔しさ、悲しさをかみしめていたようでした。また、学校の先生ですら「そんなことがアメリカで起きたはずはない」と信じてくれなかった、と心に傷を負った三世もいました。
若い三世たちは、”Justice Now! Compensation Now!(今こそ正義を! 今こそ賠償を!)” と書いたプラカードを掲げて、デモをしていました。この件に関しても、一世、二世、三世たちそれぞれに話を聞いてみて、世代ごとに大きな認識の差がある点に、深い興味を覚えました。
一世の多くは「まあ、仕方なかった」と諦めの境地とともに昔を振り返り、二世たちは日米どちらの国を選ぶかで苦悩し、引き裂かれ、ある者は収容所から激戦地へ赴くという、いずれにしても暗く悲しい青春時代を送ってきたことで、「今さら話したくない、賠償なんていらない」という人がほとんどでした。一方、三世は、日系人12万人が羊のようにおとなしく収容されたことに納得ができず、「アメリカ人として賠償を勝ち取るべきだ」と怒る。それぞれの言い分に納得がいきました。まさに、それこそが移民社会の世代的視点の違いだったと言えます。
なお、この賠償問題に関しては、レーガン政権下で賠償が実現し、1990年から被収容者に一人2万ドルの支払いが開始されました。ロサンゼルス日系人博物館が設立されたのが1992年、少なからぬ二世がその賠償金を博物館へ寄付したと聞いています。
村上由見子(むらかみ・ゆみこ): 1951年東京生まれ。 作家(表象文化、エスニック研究)。東京大学大学院客員教授、慶應義塾大学非常勤講師などを歴任。著書に『イエロー・フェイス ハリウッド映画にみるアジア人の肖像』(朝日選書)、『百年の夢 岡本ファミリーのアメリカ』(新潮社、大宅壮一ノンフィクション賞候補作)、『イースト・ミーツ・ウエスト マコとスージーの日米物語』(講談社)、『アジア系アメリカ人 アメリカの新しい顔』(中公新書)、『ハリウッド100年のアラブ:魔法のランプからテロリストまで』(朝日選書)。訳書に『マンハッタン、9月11日 生還者の証言』(中央公論新社)、『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(共訳、岩波書店)、『横浜ヤンキー 日本・ドイツ・アメリカの狭間を生きたヘルムー一族の150年』(明石書店)などがある。 |
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