「大前一郎物語」から
前回、アメリカのフロリダ州で農場を経営した大前家の歴史について、その子孫で現在京都で暮らす大前皓生さんの著作をもとに紹介した。皓生さんの祖父、大前久次郎が借金の返済のために兵庫県の山間部の故郷を去り、アメリカに渡ったのが1903(明治36)年。当初は西海岸で働いたが、その後フロリダへの日本人集団移住計画の一員としてフロリダ州北部のジャクソンビルに移る。
この計画は失敗し日本人は現地を去ったが、久次郎はジャクソンビルにとどまり野菜農場をはじめる。弟の鶴蔵もフロリダへ来て兄をサポート、さらに長男の一郎もまたこの事業に加わる。しかし、まもなく久次郎、鶴蔵が相次いで当時流行っていた腸チフスのような病で亡くなる。
失意のなかで一郎はひとり事業を続け、戦争を挟みこれを軌道に乗せ、日本人移民の娘と結婚し一男五女をもうけ、1972年12月カリフォルニアで生涯を終える。その後、一郎の子どもたちは、アメリカ人として暮らしそれぞれ家族をもうけ、アメリカでの大前家は広がりをみせている。
ここまでが前回紹介した皓生さんの著書「大前一郎物語」から要約した大前家の歴史である。
アメリカへの思い
大前皓生さんは1939(昭和14)年京都市北区で生まれ、立命館大学を卒業後、日商株式会社(後の日商岩井)に入社、主に鉄鋼部門に在籍。93年に退社後株式会社オオマエを設立し、現在、同社代表取締役会長を務めている。
亜鉛メッキ鉄線を作る際の副資材を輸入するなど、仕事上もアメリカと関わり、商社時代から国際的な視野をもつ皓生さんは、母親の兄である一郎やその父久次郎らのおかげで今日の自分たちがあるという思いと、大前家の歴史に惹かれたことでこの本をまとめた。
本書では、こうした自らの思いや、日本に残された家族について、さらに一郎亡き後のアメリカのオオマエファミリーとの交流を綴っている。
幼いころから、母親や祖母(一郎の母親)からアメリカの一郎や、久次郎そして鶴蔵について、志半ばで現地で亡くなったことなどを聞かされていた皓生さんは、アメリカを身近に感じていた。
終戦後、日本に物資が乏しいころフロリダの一郎から野球のグローブを贈ってもらったことがあった。また、一郎が32年ぶりに初めて日本に戻ってきたときに、当時小学4年の皓生さんは、父親と神戸港へ迎えに行った。皓生さんら6人の兄弟姉妹のために、一郎がどれだけ苦労したかを痛感し感謝している。
1958年、京都の洛星高校を卒業すると同時に渡米しようと、皓生さんは計画していた。一郎の長男は数学の勉強をしていて父親の事業を継がないようだったので、皓生さんが継ごうと思った。また皓生さんは次男でもあり、両親もこれを認めていた。
皓生さんにとって、一郎からもたらされる「アメリカ」という国や社会についての情報は、アメリカへの憧れとなったのだろう。一郎の父、久次郎は借金の返済という、いわば出稼ぎ目的でアメリカに渡ったのだが、初期のアメリカ移民のなかには日本では得られない夢や豊かさを抱いていたのも事実だ。さらに、戦後の豊かなアメリカを見れば、そうした気持を、戦後世代の若者が抱いたのも自然なことだった。
大前家と同じフロリダで日本人が集団で建設を計画した「大和コロニー」に参加した森上助次(ジョージ森上)の活躍を知り、彼に手紙を書いて「アメリカに行きたい」と、訴えた日本の若者がいた。
森上は、コロニーが早くに解散してしまったあと、戦後もずっと現地にとどまりひとりで農業を続けながら土地を買い集め、最後はそれを地元に寄付した。その土地がもとで南フロリダに「モリカミ・ミュージアムと日本庭園」が誕生した。日本が経済成長を遂げる過程でもあり、また現地での農業の苦労を知る森上は、この若者に対して「日本にいた方がいい」と返事を書いた。
皓生さんの場合はどうかというと、「永住権のある渡米Visaが、神戸のアメリカ領事館へ何度通っても取得できず、残念ながらこの計画は断念せざるを得ませんでした。取り敢えず渡米し、その後に永住権をとる方法もあったのですが、今度は一郎が首を縦に振ってくれませんでした。」と書いている。
また、「夫婦や親子なら呼び寄せるのはむずかしくないようだったが、甥と伯父の関係ではヴィザがとれなかった。一郎は正規なかたちで渡米するのでなければダメだと言っていた・・・・・。もし、あそこでアメリカに行っていたら私の人生も大きく変わっていただろう」と、皓生さんはいま述懐する。
苦難の女性たち
父と叔父を相次いで亡くしたのち、母親からは日本に帰国するよう手紙が来たが、一郎はフロリダにとどまり事業を続けた。そしてその後初めて故郷に帰ったのは、日本を出て32年ぶりの戦後1949年である。さらにその後20年余り帰国せず71年に二度目の帰国を果たす。
一郎には母と妹がいた。皓生さんはこのふたりの女性について、同情をもって書いている。フロリダで事業に邁進する男たちの一方で、日本に残された女性たちの人生は苦難の連続だったことは想像に難くないという。
32年ぶりに帰国した一郎は、わずか3ヵ月の滞在でフロリダに戻ってしまった。このとき、母親のふじは、自宅で別れの挨拶をしただけで一郎を神戸まで見送ることはしなかった。しかし、のちに一郎の着たパジャマを抱きしめて泣いていたという。
また、一郎にはたったひとりの妹、夏江は、渡米した父親の久次郎とはわずか二年弱一緒に暮らしただけで、兄ともほとんど別れたままだった。1970年末に、皓生さんが初めての海外旅行として渡米することになったとき、母親の夏江を帯同するつもりだった。
夏江が少女時代からアメリカのことを思い続け、一度は行ってみたいと思っているだろうと想像したからだった。しかし、なぜか夫(皓生さんの父親)の了解が得られず断念したという。夫の意向に妻が従うという家庭の事情があったようで、その後も夏江がアメリカに行くことはなかった。
日米ファミリーの交流
一郎の六人の子どもたち、つまり皓生さんの従兄弟(従姉妹)たちであるアメリカの大前ファミリーとのつながりを皓生さんは大切にし、また、彼らも日本の大前家とのつながりを大切にし、ルーツに非常に興味を持っていた。戦前に移民した日本人のなかでは、世代が変わっていくなかで、日本との関わりをほとんどもたなくなる“日系”ファミリーも多いが、大前家は、皓生さんを介して交流している。
1970年に渡米したとき、皓生さんはフロリダ・ジャクソンビルを訪ね、大前久次郎と鶴蔵兄弟の墓参りをした。一方、アメリカのファミリーが日本に来たときは、兵庫県氷上郡北太田にある一郎の生家と、久次郎と鶴蔵の遺髪が埋葬されている先祖の墓地へと彼らを案内する。
フロリダを訪れた皓生さんに、生前の一郎が自らの半生を語ったあとで、こう言ったという。「話してみれば50年ってこんなに短いものなのか」。
言葉にすれば、波瀾に満ちた異国の半生も、あっという間だと感じられるのだろう。しかし、皓生さんがその言葉を受け取り、記録として残してきたからこそ、国境を跨いだファミリーの歴史は大きな一本の川の流れとなった。
(敬称一部略、了)
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