「本場に行かなければ」
2024年7月、ドジャーススタジアムでドジャース対ジャイアンツ戦のプレゲームでの演奏を行ったジャズギタリストの大岡遊さん。大阪出身の遊さんは神戸の音楽学校を卒業後、二十歳で単身、ロサンゼルスに渡ってきた。
「卒業した半年後にはもうロサンゼルスにいました。ジャズやブルース、R&Bをやる上で本場に行かなくちゃ、という思いだけでアメリカに来ました。最初は東海岸に渡ることも考えました。僕の出身校はボストンのバークレー音楽院と提携していて、日本の学校の単位を活かせば最短でバークレーを2年半で卒業できるという話もあったんです。でも、日本の音楽学校でいろんなことをすでに学んでいたのでさらに留学してどうなるんだろう、という気持ちが正直なところでした。だから僕の好きなギタリスト、例えばラリー・カールトンやリー・リトナーがいる西海岸に目を向けて、行き先をロサンゼルスに決めたのです。
でも結局、ビザのためにミュージシャンズインスティチュートに半年間在籍しました。あの学校の良いところは24時間スタジオを使用できるということでした。僕は夕方、学校に行ってスタジオに入って、朝、他の学生が登校する時間に家に帰るというような生活をしていました(笑)」。
転機は意外にも早く訪れた。
「ジャズセッションに顔を出すようになった頃、ある人の紹介でジャズ界の大物ピアニストのビリー・ミッチェルに出会ったんです。彼が若いミュージシャンと一緒に音楽をやりたいということで、ビリー・ミッチェル・グループに加入することができました。渡米の翌年ですから、すごく早い時期でしたね。ビリーは引退する去年まで演奏していたので、パンデミックの間を引くと大体15年くらい一緒に活動していたことになります。その間、レコーディング、テレビやフェスへの出演と、いろんな経験をさせてもらったし、何よりビリーとつながっているベテランのミュージシャンと一緒に演奏する機会に恵まれました」。
選択肢豊富なアメリカ
あっという間にジャズのメインストリームに合流した遊さんには、「日本に帰る」という選択肢が頭に浮かぶ暇(いとま)はなかった。
「アメリカが合っていたのだと思います。実は僕、お酒が飲めないんです。でも、アメリカではお酒を一緒に飲む仲間だから一緒に仕事もするということがなくて、むしろ、演奏が終わったらお酒なんか飲まずにすぐに帰るんですよ。これ、音楽に限ったことではないと思いますが。僕が演奏終わってギターを片付けてから周囲を見回すと誰もいない(笑)。だから、仕事は仕事というさっぱりしたアメリカでのやり方が僕の性に合っていると感じます」。
それでは逆に在米20年を経た遊さんの目に、日本はどのように映っているのだろうか。
「アメリカは自由の国と言いますが、選択肢が豊富にあります。しかし、日本での選択肢は非常に限られているように思います。音楽で言うと、ジャズのミュージシャンでも彼らが持つ引き出しの数は非常に多いわけです。しかもそれらのレベルは決して浅くなく、かなり深いレベルなのです。
日本のいいところももちろんあって、人々が丁寧で器用であること。しかし、伝えることがあまり上手ではない。僕もそれに関しては失敗談があって、20年前にビリーとモータウンの大物のドラマーと一緒の時、自分の持っているものを全部出してやろうと張り切って演奏したら、二人に大笑いされました。『自分たちがやろうとしているのはシンプルなブルースなのにお前がやっているのはホワイトノート(白人の音楽)だ。ソウルミュージックをやらないとダメだろう』と言うのです。つまりそれはテクニックではなく、ハートで弾かないとダメだっていうことなんですよね。僕はそのことに早い時期に気づくことができてラッキーでした」。
ジャズ・ヒップホップに三味線を
遊さんは、彼が目指す音楽の本場で活動を続けてきた経験こそが、自分を大きく成長させてくれたと話す。
「好きな音楽のルーツに触れたことが大きかったと思います。もし、日本の中にいたら、何も知らないまま過ごしていたでしょう。それにロサンゼルスには世界中から人々が集まってきますよね。いろんな人と関わりを持つことで新しいこと、知らなかったことが見えてきます。だから、日本人には、日本の中だけにいないで外に出てほしいです。いくらインターネットでいろんなことを知ることができても、狭い画面の中だけに留まらず、リアルな空気を感じるべきです」。
そして今、遊さんは複数のプロジェクトに携わっている。その一つがラジオ番組のMC、二つ目がヒップホップとジャズを繋ぐコンセプトのアパレル事業の展開、そして最後が三味線の演奏をジャズとヒップホップに取り入れた音楽のレコーディング。実は遊さん、三味線の名取でもある。
「三味線だけを演奏してきた人には思い付かない発想で、黒人の音楽に三味線をブレンドさせるというものです。誰かの真似とかには興味がなくて、これまで培ったものを活かして自分の音楽をクリエイトしていきます」。
遊さんからは取材中に何度も「リアル」という言葉が飛び出した。リアルなアメリカにやってきて、リアルな経験を重ねてきた彼は、今、進行中のプロジェクトもリアルなものに昇華させるに違いない。
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